『天 ―天和通りの快男児』の主人公は誰なのか――葬式編放送に寄せて

福本伸行『天 ―天和通りの快男児』新装版13巻, 竹書房, 2016年

『天』という麻雀マンガは、福本マンガの中でも極めて特異なポジションを占める。

基本的に福本マンガは、というか、普通マンガというものは、作品の中での主役や方向性、描く内容というのがかなりの部分定まっているものである。例えば『カイジ』の主人公は明白にカイジであり、社会の底辺にいたフリーターが土壇場で勝機を手繰り寄せ、世の中を牛耳る資本階級に反撃する、という流れがある。

ところが『天』の主人公が果たして天貴史なのかというと、これが一筋縄にいかない。作品を通して中心人物は目まぐるしく変わり、むしろ全巻を通読して読者の心に強く残るのは赤木しげると、その後を追う語り手の井川ひろゆきではないだろうか。

特に物語終盤の「赤木しげる葬式編(通夜編)」は言わば、“天才”赤木と“凡人”ひろゆきのコントラストが軸となるドラマであり、ここにおいてはむしろ“主人公”であったはずの天貴史が狂言回しのようになっている。

人情編:エリートとしてのひろゆき

最初から順に追っていこう。まず物語は受験生だったひろゆきが天と出会うところから始まる。ここにおいてひろゆきは「社会を要領よく渡り歩くキレ者の若者」として登場する(図1)。

図1:初期のひろゆき評(福本伸行『天 ―天和通りの快男児』1巻, 竹書房, 1989年)

この序盤パートにおいて、ひろゆきはむしろエリート的であり、数理的な合理性に基づく麻雀を打つ彼が、人情に厚く理に適わない天貴史に何故か敗北してしまう、という“理”と“情”のコントラストを描くための配役である。

もう少し言えば、天貴史の底知れなさを強調するための存在であり、『シャーロック・ホームズ』で言えば、ホームズの知恵と名言に毎度驚嘆する語り手ワトソンに近い。主役を引き立てる前座的役割を担っているため、序盤全体の登場シーンそのものはひろゆきの方が遥かに多いが、話が佳境に入ると天が颯爽と登場して事件を収めオチをつける、という流れが繰り返される(図2)。ここで天とひろゆきのコンビは、1つのシステムとして機能している。

図2:福本伸行『天 ―天和通りの快男児』1巻

序盤において、このようにひろゆきと天は相補的な関係にあるため、二人三脚の主人公であり、ひろゆき無くして天の無縫ぶりは描けない。ちょうどワトソンのいないホームズの物語が、ただひたすら事件があっさり片付くだけの、がらんどうなドラマと化してしまうように。

東西戦:赤木しげるという劇薬

人情物としてスタートした『天』だが、2巻中盤で赤木登場というイレギュラーが発生する(図3)。

図3:五十嵐による赤木評(福本伸行『天 ―天和通りの快男児』2巻, 竹書房, 1989年)

この赤木登場を境として『天』は麻雀勝負モノとして明確に舵を切っていくのであり、物語序盤に散りばめられていた人情的要素は宙ぶらりんになって忘却されてしまう。同時に福本マンガ全体の風潮そのものが勝負・ギャンブルの方向に傾き、90年代以降の福本はもっぱらギャンブルマンガの大家として、取り分け『カイジ』に代表される創作ギャンブル系の草分け的存在として業界を席巻していく。

同時に『天』の中でも、赤木登場によって“理”のひろゆきと“情”の天という対照性は崩壊する。

赤木は理と直感を兼ね備えたギャンブラーの究極の到達点であり、「赤木―天―ひろゆき」という序列の中で、天が赤木へ、ひろゆきがその二人へと接近しようとする上昇のパトスを描きながら、麻雀達人同士の龍虎決戦が描かれるマンガになっていく(図4)。

図4:福本伸行『天 ―天和通りの快男児』3巻, 竹書房, 1990年

片割れを失った主人公の弱個性

中盤の主人公は、一応は天である。ひろゆきは天との「月と太陽」のような対照関係を失い、もっぱら達人たちの達人ぶりを際立たせ、解説するための存在に落ちてしまい、主人公と呼ぶには苦しい。一方、天は主人公ポジションから脱落したひろゆきに代わって前線で身体を張り、原田らボス格の強敵と対峙していく。

ただし天も序盤のような無二性や輝きはあまり見せない。というのも天という風来坊のキャラクターデザインは、インテリのひろゆきとのコントラストで初めて十全に機能するものであり、東西戦や二人麻雀における「ひろゆきを失った天」は、単に麻雀が強いだけの「主人公の抜け殻」という印象が拭えないからだ。

赤木しげる包囲網による群像劇

そのため東西戦においては、機能不全に陥った「天・ひろゆきシステム」を補うために、周辺キャラクターに暴力団の原田、怪物僧我、ガン牌の銀次といった強力な個性が配置され、赤木を中心としてこれらのキャラクターが、ちょうど麻雀の手番を持ち回りしていくかのように、主人公の役割を代わる代わる担っていく。

そのため東西戦は、天やひろゆき以外の人物の視点やモノローグがかなり多い。東西戦においては、それぞれの人物の座席から勝負を立体的に見ていく「麻雀群像劇」となっているのであり(図5)、主役ポジションは分散的で、天はある意味で「主人公の役割を担う人物の一人」と化している。

図4:赤木を囲って場面を語る蘇我たち(福本伸行『天 ―天和通りの快男児』5巻, 竹書房, 1992年)

このように、赤木出現に端を発するギャンブル勝負への転換は、福本マンガにおける大きな飛躍であると同時に、『天』序盤の物語構造が空中分解し、いささか迷走気味になるという破壊的痕跡も残した。そのため『天』は、全体として見るとまとまりに欠ける作品なのは事実である。

実はこれに似た作風変遷をしたマンガが他にも存在する。それは『バキ』シリーズである。

あのマンガでも範馬勇次郎がキャラとして確立されると、物語はむしろ勇次郎を中心にしてそれを他のキャラが包囲する群像劇的な性格が強くなり、烈海王や愚地独歩といった個性が際立って、主役であったバキは相対的に弱個性な人物と化してしまった。

葬式編:赤木による対照性の再構築

このような長い長い群像期を通してたどり着くのが「赤木しげる葬式編」である。

この葬式編も群像劇的な性格が強いものの、主人公は誰かと考えれば、それは明白にひろゆきと赤木になっている。

もっと言えば、ひろゆきが読者に近いポジションを代表しているのでより主人公的であり、赤木は主人公というより事件の中心人物である。そもそも物語が、ひろゆきが赤木の訃報を受け取る場面からスタートするし(図5)、最終的にエピローグでも彼が進行の中心となり、ひろゆきの赤木継承物語として幕を閉じる。“ハナ”と“トリ”を飾るのは主役の本分である。

図5:福本伸行『天 ―天和通りの快男児』16巻, 竹書房, 2000年

一方、天は物語の仲介役に徹しており、葬式編では主人公ポジションから完全に脱落している。

これは作品の最初に立ち返って考えると、赤木による対照性の再構築なのである。つまり天・ひろゆきという相補的な主人公の在り方は、赤木出現によるギャンブル編の本格始動で一度骨抜きになってしまったのだが、かつての天のポジションを赤木が代わることで、絶対的な強者とそれを際立たせるひろゆきというコントラストが復活している(図6)。

図6:福本伸行『天 ―天和通りの快男児』18巻, 竹書房, 2002年

簡単に言えば、ひろゆきは新たなパートナーを獲得したことで、本来持っていた「月なる主人公」としての本性を蘇らせたことになる。

またこのようなシステムの破壊と再構築が、福本の作品変遷そのものと呼応している点も注目に値する。

よく言われるように、14年を超える長期連載になった『天』は、作風転換期の福本マンガのそれぞれの性質を各時期ごとに反映している作品であり、その作風はスペクトラムのように連続変化していった。

ここで、それぞれの時期の主要人物は福本の作品精神そのものを体現している。もともと天は「人情」を、赤木は「狂気」を表すための記号でもある。そうなると、作風変遷の終端である「葬式編」において、もはや「人情編」の名残である天に、主人公としての座席が残っていないのは必然である。東西戦という過渡期を過ぎ、天の役割は既に終わっている。

だから天は狂言回しへと退き、代わりに主役を引き立たせる本性を持ったひろゆきが、赤木を新たなパートナーとして蜜月の関係を築いた。人情モノとしてスタートした『天』は、人情を体現する天貴史が、強さと狂気の赤木へとバトンタッチすることで、人生闘争のマンガとして終わりを迎えたのである。

ひろゆきの挫折――“彼ら”から“私”の物語へ

またここで、エリート型の人間として登場したひろゆきが、葬式編においては冴えないサラリーマンとして、平凡な日常を生きている点も重要である。葬式編の特異な点は、読者の視点とひろゆきの視点が大きく接近していることである。

言ってしまえば、落伍することによってひろゆきは一般化された存在になり、読者にとって“彼”という「他人」から“オレ”という「読者自身」なったのである。

物語序盤のひろゆきと自分を同一視できる読者は少なかったであろう。天や赤木に遅れを取ってはいても、ひろゆきは紛れもなくエリートであり切れ者であったからだ。

ところが物語の中盤からひろゆきは輝きを失い、赤木らのあまりの眩しさに耐えきれなくなった彼は、とうとう自ら目を閉ざして地上をさまよい歩く盲目になった。日々を他人に流されて生きる凡夫に堕ちた(図7)。

図6:無気力に毎日を過ごすひろゆき(福本伸行『天 ―天和通りの快男児』16巻)

しかし堕ちたからこそ、ひろゆきは読者と同質化し、様々な読者が自分を投影できる“私(I)”になった。それまでの『天』はあくまで“彼ら(they)”の三人称的な物語であったが、この最終章はひろゆきによる一人称の物語になっている。

葬式編におけるひろゆき――それは消費社会に翻弄され、合理性や功利主義に飲まれて次第次第に自己を喪失し、無気力になっていく我々現代人そのものである。

ここに時代の流れや必然性というものも感じる。80年代までの娯楽作品というのは、英雄が活躍する三人称的なものが主流であったが、90年代後半に入ると主人公が“私”に一般化された一人称の物語が大きな脚光を浴びるようになった。

代表的なのは映画『マトリックス』と『ファイトクラブ』であり、どちらも資本主義社会で自己を喪失した“私”が真の自分を取り戻すという話である。共に99年公開の作品であり、この『天』の葬式編とも時代が完全に一致する。

ひろゆきは赤木という新たな太陽を見つけると同時に、自己の立ち位置を読者の位にまで下げ、読者の視点そのものとなることを可能にした。こうして葬式編は、赤木からひろゆきというキャラクターへのエールというより、生き方に悩む多くの現代人へ向けて赤木が語りかけるエピソードとなったのである。

赤木の散華――人生そのものを芸術とすること

『天』は万華鏡のように、作家の様々な片鱗を多面的にのぞかせる作品なので、人によって好みの箇所や評価が様々だろうが、もし一箇所最高の部分を選べと言われたら、やはりこの葬式編であろう。ここには作家が連綿と積み重ねてきた様々が集約されている。

あくまで自死による己の完結の姿勢を貫き、安楽死を遂げた赤木しげる。その赤木が天に問われ、最後に「ああ、無念だ」と漏らす(図7)。「死ぬのは無念」と認めつつも生を手放す、その意思決定にこそ赤木の独創がある。赤木の独創とは独善の意思決定である。

図7:福本伸行『天 ―天和通りの快男児』18巻, 竹書房, 2002年

結局、赤木のオリジナルとは何かと考えた時、それは自らの意思決定の愚直なまでの尊重にある。『天』での初登場時から、半荘でも出し抜かれたら降りると宣言し、東西戦においても最後の土壇場で言い張らずに勝ち目を自ら潰し「それは自分の流儀ではない」と寝転んだ。

スピンオフ作品の『アカギ』においても、赤木は傍目に異常な意思決定を繰り返し、その自殺的な妙手の根拠を「自分がそう読んだから」と言って憚らない。安岡はその本質を言い表した。「赤木の最も傑出した才能、資質は、自分の判断を信じる才能」。つまり、天才の美学や直感を一切濁らせずに現実世界で実行してしまうことが、赤木の純粋の芸術なのだ。

「赤木しげるとして勝ち、負けたいのだ…」「俺が俺自身に伝える最後の言葉…!」……赤木のセリフにはどこか、自身を「赤木しげる」という別個の芸術家として、第三者的に見つめていたところがある (図8)。“赤木”を誰よりも信仰していたのは赤木自身であろう。

図8:“赤木しげる”としての自己を語る赤木(福本伸行『天 ―天和通りの快男児』10巻, 竹書房, 1995年)

赤木は“赤木”の読みを、意思決定を、誰よりも尊重しているからこそ赤木である。赤木は「“赤木”がしないこと」はしないのである。「それは“赤木”ではない」からである。

このように彼の論理を組み立てれば、葬式編において彼が死を決意するのは必然である。何故なら彼自身が述べていたように、このままでは彼は「“赤木”ではなくなる」し、かと言って「“赤木”であろう」とすれば、やはり赤木は死ぬしかないからだ。

俺が俺自身に伝える最後の言葉…!そうだ…そう!完成だ…!多分…人間は死んで完成する……!

福本伸行『天 ―天和通りの快男児』 18巻

赤木は“赤木”という独創を貫徹して死に、人の記憶に埋葬され、その艶やかさの絶頂のままに落葉して枯れ果てる紅葉のように、死によって赤木の人生そのものが“赤木”という芸術として幕を閉じた。終わってみれば、これ以上に印象的な『天』のラストは想像できない。その過程にいかに混乱や迷走が見られようと、私はこの葬式編の壮大な幕引きという一点だけで、『天』は傑作と呼ぶに値すると思う。

葬式編は作品の持つ意味を変えた

作者はあとがきにて、次々に物語(彼曰く「蛇足」)を継ぎ足してしまう性分を「悪癖」と自嘲しているが、むしろ本作においては、一度物語の構造が崩れた『天』という過渡期の作品を回収し、再構築することで、全く新しい物語として蘇らせることに成功している。

作者は葬式編にて『天』を再解釈し、各人の「人生闘争の物語」とした。ひろゆきや原田の敗北や苦悩が、赤木の祝福を受けてその意味を塗り替えられた。葬式編なくしては、彼らはただの敗残者に過ぎなかった。

思えばその始まりは、東西戦終盤の赤木のドロップアウトである。ここから話は「生き様」に大きく傾いていき、もはや内面上はほとんど麻雀の勝負ではなくなった。

二人麻雀の主人公は原田と天だが、どちらかと言えば原田に見える。二人麻雀は延々と続く鍔迫り合いよりも「登りつめたい」原田を表現するための勝負であり、その原田の葛藤は葬式編に回収される。原田は葬式編にて、サラリーマンのひろゆきとは異なる「社会的地位に縛られた私」を一般化している。

東西戦後の二人麻雀、そして葬式編がなければ、作者の言を借りれば「蛇足」がなければ、『天』は畢竟、「勝負の話」にしかならなかったであろう。そうであれば『アカギ』や『カイジ』の後塵を拝する佳作として埋もれていっただろう。

葬式編は「蛇足」ではなかった。むしろ『天』という作品の新たな始まりでもあったのだ。

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投稿日時: 2019/12/07 ― 最終更新: 2020/05/14
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