平野耕太『大同人物語』1巻, ワニブックス, 1998年

平野耕太という作家は言うまでもなく、漫画家の中でも極めてオタク的な漫画家であって、言動から作風まで全身総オタクとでも呼ぶべきアルティメット・ナードである。ここで言う「オタク」は「サブカル教養の塊」という意味。彼の作品を読んでいれば分かるだろう。口を開けばそのオタク的饒舌が暴発し、聞いてもいないのに歴史上の人物の面白エピソードやらメタ発言やらを垂れ流し、そういったジャンル横断したペダントリーが『ヘルシング』や『ドリフターズ』の大きな魅力にもなっている。

私は、彼の全身はあますことなく「21世紀のジャパンに生息したオタクなる生き物の標本」として、未来永劫保管されるべきだと思っているし、なんなら文部科学省は歴史の教科書に彼の漢字4文字を記してもいい。きっと重大な何かが分かるだろう。

ヒラコーが同人について雄弁に語りだした

さて、『大同人物語』は、そんなオタク・オブ・オタクである若き日の平野耕太が、何と同人界について語ってしまったという自己言及的なマンガなのである(図1)。話の大枠としては、大手サークルから排除された新米の主人公が、同人界の伝説的なはぐれ者たちにスカウトされて界隈最大手サークルの支配に立ち向かう、というものである。

図1:平野耕太『大同人物語』1巻

『1日外出録ハンチョウ』の「賛歌」のエピソードの記事でも書いたが、作家が作品や業界について語るというのは一種のタブーであって、必然的に暴露的で身内批判的な内容になりやすい。そして、だからこそ描けばウケる。

事実、この作品でも「自分の描きたい作品を好きなように描く」という同人界の光の部分はほとんどスルー、というより「そんなお気楽なモンじゃねぇんだよ」という話になっていて、同人界の派閥やら即売会(作中ではマンガケット)の配置事情やら、マンガそのものよりは楽屋話に紙面の大半が割かれている。

商業主義との対立

作中の対立構造の中心となるのが「芸術主義 vs. 商業主義」の対立である(図2)。

図2:平野耕太『大同人物語』1巻

「好きでやってる同人活動で、なぜ商業主義との対立が激化するのか」と考える人があるかもしれない。同人ってそういう商業主義から距離を置きたい人たちがやってるんでしょ、と。

しかしそれは論理があべこべで、同人だからこそ商業主義と真っ向から鍔迫り合いをせざるを得ないのである。商業の世界では、そもそもが商売なのだから「商業主義との対立」「嫌儲」などという自己矛盾が生じない。商業の世界で儲けることが正義なのは最初から当たり前であり、そこでは「儲けに走るべきか」という議論自体がナンセンスである。

主人公たちは即売会というものに属して売る以上、既に社会的な存在として同人界に組み込まれているのであり、人間社会を支配する経済的な論理から無縁ではいられない。売れて儲けている人気者が支配力や影響力を発揮し、そうなれば必然、需要に対して供給を発生させて確実に儲けるか、自分の描きたいものを描くかという激しい葛藤が生まれる。好きなものを描ける同人の世界だからこそ、その葛藤がより激しくなるのである(図3)。

図3:平野耕太『大同人物語』1巻

絵は初期『ヘルシング』の調子ではあるが、既に「倒置やリフレインを多用する大仰な言い回し」「ポエティックな宣戦布告」といったヒラコー節は全開になっている。それは後年の作品に親しんだ人間にとって、あたかも「平野作品をパロった同人マンガ」のように見える点がなんだか可笑しい。

そんなわけで、作家が業界について雄弁に語りまくっている本作が面白くないわけはないのだが、残念ながら単行本1巻のみ既刊で未完のままである。ただ1巻だけでも相当面白いマンガなので、興味のある方は是非中古本を漁ってゲットしていただきたい。

【マンガ】カテゴリーの記事一覧

LINEで送る
Pocket

投稿日時: 2019/10/15 ― 最終更新: 2019/10/21
同じテーマの記事を探す