松井優征の作品に共通するテーマは父性である。『ネウロ』も『暗殺教室』も、既に肉体的にも精神的にも「完成された存在」である主人公が地上に出現して、彼らのような超人が「私は完成されている。さあ何をしよう」と思った時にどうなるかというシミュレーションが試みられている。

それで「完成された存在」は、不完全な人間を律するための法も倫理も踏み越えて、己のエゴをただ追求する存在となる、という仮定が『ネウロ』であって(図1)、それとは逆に、己のエゴが半ば消失してしまい(だって完成=完結してるから)、他者を導く究極の教師になるという仮定が『暗殺教室』だろう。

図1:松井優征『魔人探偵脳噛ネウロ』文庫本1巻, 集英社, 2013年

しかし『ネウロ』にせよ『暗殺教室』にせよ、圧倒的に完成された存在である彼らは、進化を熱望する人間を否応なく牽引し、高めていく引力を持っていて、それが父性なのである。そういう意味で、実は松井優征の「ひねくれた」作品たちは、王道の成長物語であると言える。

「トラウマに由来しない悪の時代」の宣言

この作品は『金田一少年の事件簿』とか『名探偵コナン』のアンチテーゼとしてのインチキ推理漫画で、そもそも主人公が魔人という時点で真面目に推理する気がゼロである。

そしてこれまでの推理漫画の犯人の「トラウマによって悪にならざるを得なかったのだ」という、テンプレート的でなおざりな動機説明で締めくくる陳腐さ、性善説として殺人事件を畳んでいく胡散臭さに耐えかねた松井優征が「人間ってそんな存在じゃないから」「謎解きとかどうせ真面目に読んでないでしょ?」と、少年マンガ誌を舞台に猛烈批判したのが『ネウロ』である(図2)。

図2:松井優征『魔人探偵脳噛ネウロ』文庫本4巻, 集英社, 2013年

だから主人公のネウロは、殺人現場にやってきても魔界道具とかいうチートで一瞬で謎を解いてしまうし、殺人の動機を聞かれた犯人は「犯りたいから犯ったんだよ!バァーカ!!」と開き直って、自分の犯罪がいかに素晴らしいかを力説する(図3)。

図3:松井優征『魔人探偵脳噛ネウロ』文庫本2巻, 集英社, 2013年

もちろんそれは『ネウロ』の魅力的なB級要素の1つで、それ自体かなり先進的で鋭い「無個性な悪」への批判である。松井優征は、己の積極的な願望によって犯罪をなす人間たちを「芯を持った犯罪者」と呼称した。作中で葛西善二郎が「トラウマに由来する悪は真の悪ではない」と悪の哲学を語り、あるいは映画『ダークナイト』(’08)のジョーカーがカリスマ的な悪として称賛を浴びたように「トラウマの心理学で説明できない悪」という造形は、21世紀の悪の描写の大きな潮流になっていくだろう。

そういう点で、今挙げた2作品の絶対悪であるシックスとジョーカーが同時期に出現したことは、全くの偶然とも思えない(まあシックスの描写は少年マンガ誌の制約上、不完全なもので批判も多いが。本作における理想の悪の体現者は、むしろ部下の葛西である)。

超人になれない人間たち

『ネウロ』の悪の描写は痛快なアイロニーを含んでいて、それ自体で週刊連載が続くくらいの魅力は十分秘めている。

ただ当時の私の中で『ネウロ』は「そういう批判をB級作品に擬態して行う道化マンガだ」という解釈で完結し「それだけの作品」に過ぎなかったのである。むしろダリのシュルレアリスムやピカソのキュビズムを表面上模倣したような絵や、怪盗Xの煮え切らない「絶対悪」描写を見て「あまりにもB級し過ぎてて中途半端かな」とすら思っていて、この作品を過小評価していた。

私の本作への評価がガラリと変わったのが、終盤のシックス編も佳境に入った頃である。

そこでは自分たちこそが人類を超越した新しい支配者だと信じる悪の集団が、過去の殺人犯などとは比べ物にならない大量殺戮を行っているのだが、それを目の当たりにした桂木弥子は「人間を超えた存在だ」と言い表す。それに対して吾代忍は「そんなやつら本当に存在するのかよ」とつぶやいて、朽ち果てた「人間を超えた悪」の亡骸のもとを去るのである。

図4:松井優征『魔人探偵脳噛ネウロ』文庫本10巻, 集英社, 2013年

ここで私は「『ネウロ』は実は、ニーチェ的な超人思想を追求したマンガなんじゃないか」と思ったのである。松井優征がどれほど意識的であったかは知らないが、結果としてそういうものを理想として描いている。

吾代や葛西が暴いたことは、絶対悪であるシックスに従う「新しい血族」も、所詮は自分たちを「超人」だと信じたい「弱い人間」の集団だったということである。彼らは人並み外れた知性とか、知識量とか、肉体的な強さとか、そういう精神に付随する「道具」に依存した「超人もどき」であって、極端な話、彼らが突然アリンコの身体にされてしまったら、アリンコの精神性しか発揮できないのである。彼らが超人のような意識でいられるのは、肉体的に優位を保っているときだけである。

彼らはまがい物であり、超人とそこにたどり着けない「人間」の差異を浮き彫りにする存在なのである。

「超人的精神」の体現者としてのネウロ

精神的強さの点で「完成された存在」たるネウロは、彼らとは決定的に異なる。ネウロが肉体的にも最強であったのは、結果としてたまたま最強であったというだけの話であって、別にネウロは自分の身体がどんなに弱体化したところで超人としての精神性を失わないのである。

図5:松井優征『魔人探偵脳噛ネウロ』文庫本6巻, 集英社, 2013年

すなわち、他者の一切の承認を必要とせず、自分の目指すもののためならあらゆる苦痛を受け入れ邁進する心積もりがある(図5)。ネウロが彼自身として完結した、ニヒリズムを超越した無限に自己肯定的な存在となっている。これは『暗殺教室』の殺せんせーも一緒である。彼らは自分の居場所やアイデンティティにすら、さして執着を見せない。彼らにとって重要なのは、己の求めるものに対して常に前進し続けることである。

我が輩の身体は…どんどん只の人間に近づいている。魔界特有の濃い瘴気が地上には無いせいだろう。魔人としての体裁を保てなくなってきた。

(中略)正直我が輩、自分が人間でも魔人でもどうでもいい。が、死ぬわけにはいかんのだ。この地上に散らばる『謎』で…我が脳髄の空腹を満たすまでは。

松井優征『魔人探偵脳噛ネウロ』文庫本4巻

ネウロが超人として無限の自己肯定性を持っている描写というのは、本当に山程出てくる。

「負けて凹むだと?笑わせるな。食事に勝ち負けなど存在しない。勝つか負けるかではなく、喰うか喰われるかだ」

松井優征 『魔人探偵脳噛ネウロ』文庫本5巻

「愚問だな。貴様は点滴だけの病院生活で満たされるのか?」
「あの男の主張はほぼ正しい。目標のためにはどんな苦痛も課す価値がある」

松井優征 『魔人探偵脳噛ネウロ』文庫本10巻

ネウロに牽引され成長する人間たち

そしてそのような超人たるネウロの、肉体だけではない無限の精神の強さに惹かれて、ヤコや怪盗Xをはじめとする人間たちが進化し、究極の到達点であるネウロに接近するというのが『魔人探偵脳噛ネウロ』の大枠である。恐らくネウロや殺せんせーのような精神の在り方が、作者にとっての理想であり、彼らの他者を引きつける引力こそが成長を牽引する力、すなわち父性なのである。

私はシックス編の途中から急激に解釈を変更したので「でも作者に本当にそういう思惑があるかな」とも思っていた。だからこそ最終巻あとがきに「最も中心にあるのは、あくまで普通の人間である弥子の進化と、それを見守る魔人ネウロというスタンス」と明言されていたときには嬉しかったし、1巻から読み直しても『ネウロ』はずっとそういうマンガだったのである。表面上のB級描写を読者サービスとして続けながら。

人間側の「完成者」としてのシックス

図6:松井優征『魔人探偵脳噛ネウロ』文庫本6巻, 集英社, 2013年

一方、 このような人間たちとは全く別方向の進化によって、ただ一人だけ超人の領域まで近接した人間がシックスである(図6)。シックスに関しては「絶対悪としての描写がショボい」と評判が悪いのだが、彼の超人としての描写はかなり良く出来ている。

シックスもネウロと同じく他者の承認を必要とせず、己の目的のためならあらゆる苦痛を物ともしない。物語終盤で身体をぶった切られても不敵に勝利のビジョンを描いている時点で、こいつは流石だと思ってしまった(超人の最大の特徴は「へこたれない」ということである)。そしてシックスもまた「超人の引力」を発揮し、周囲の様々な悪人の進化を促しながらネウロと対立していく(図7)。

図7:松井優征『魔人探偵脳噛ネウロ』文庫本6巻, 集英社, 2013年

ただしシックスは、他者と共存不可能な進化を選んでしまった結果として最終的に排除されてしまう。シックスの進化は種を丸ごと全滅させてしまうことが明らかで、彼はその状況を巨大な力で無理やり実現させていたのだが、自分に拮抗する超人たるネウロが出現したことで、環境の力で敗けてしまう。エゴの塊であるネウロが人間を好き放題殺さないのはどういうことなのか、という批判への反論が「それは“種の共存”である」と、ここで一応示されているわけだ。

『ネウロ』は稀有な作品である。少年ジャンプという制約の大きい舞台でありながら、既存のお約束を痛烈に批判してタブーを描き、一見ナンセンスで無法の探偵物語の中に、様々な思想や探求を含んでいる。本作はまさしく「B級のふりをしたA級作品」なのである。

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投稿日時: 2019/10/11 ― 最終更新: 2019/11/16
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