岩明均『ヘウレーカ』白泉社, 2002年

岩明均のマンガをどう楽しめばいいのか分からない、という感想がある。この作者の作品には、エンタメとしての分かりやすい「面白味」や「上手いと思わせる要素」であるところの巧妙な伏線とか、どんでん返しとか、突飛な台詞回しとか、そういったものが少ない。淡々とした描写の中に、時折、主人公の見せる巧妙な策略が光るくらいである。

『寄生獣』という作品は、そんな岩明としてはかなりエンタメに寄せて「寄生獣同士のバトル」とか「最強生物の後藤」とか、分かりやすい要素を出したから一般受けしたというのもあると思う。

ところがこういった「岩明作品は淡々とし過ぎてる」という批判は、そのまま彼の作品の魅力の注釈にもなっているのである。

「モノ」として矮小化される人物たち

説明が遅れたが『ヘウレーカ』は、紀元前の地中海周辺でカルタゴ軍とローマ軍が激突したポエニ戦争を、アルキメデスの住む街の攻防戦から描いた歴史マンガである。世界史でハンニバルとか、カンネーの戦いといった用語が出てきた時期だ。

さて、彼の作風の特徴として「事実を事実として剥き出しのまま切り取ってしまう」というのがある。

例えば『ヘウレーカ』内で、アルキメデスの発明品で胴体を真っ二つにされた兵士が、何が起きたか認識できずに虚空を見つめてたりとか(図1) 、投石機を食らって胴体や顔面が吹っ飛んだ兵士が、その瞬間には「肉体が吹き飛んだ」というとんでもない事実を認識できずにキョトンとしている。

図1:『ヘウレーカ』

一般的に、バトルが発生するようなマンガを男性が描いた時、その物語に登場する人物たちは個性的で、過去があって、因縁があって、台詞がある。一言で言えば個人の中に「ロマン」がある。

ところが岩明作品の中では、個々の人物が持っているはずのそういった「ロマン」が捨象されて、単純な「モノ」と化す。彼の作品の中で人間とは、思考し呼吸する「モノ」に過ぎない。

岩明の描く人物は「モノ」だから、死の瞬間にも「ぐわあああぁァァー!」とか「我が生涯に一片の悔い無し!」とか「あっちょんぶりけぇー!」とか、そういう個人の抱える「ロマン」が爆発する瞬間を切り取らない。その手前の「モノ」がモノとして破壊される無機質な瞬間、すなわち頭が吹き飛んで「が」と声帯ノイズを発し、隣のやつが「今なんかあったの?」と呆けてる瞬間を切り取る(図2)。

図2:『ヘウレーカ』

そうして「モノ」はモノとして地面に落下し、腐り果てた肉体はただの有機物として荒野で分解される。そこでは、我々が「かけがえのないこの生命」に対して行う意味づけとか、劇的な臨終のクライマックスとか、そういった脚色が排されている。

人間がただの「モノ」に矮小化されてしまう、この世界の圧倒的スケール。『ヘウレーカ』は、個人のロマンを切り捨てた結果、そういう巨大な視点から物語を描くことに成功している。

歴史という無常を観測する狂言回し

人間が「モノ」として打ち捨てられてしまう最大の舞台はどこかと言えば、それは歴史である。結局、その当時生きていた人間たちがどんな大きな夢や理想を抱えていたとしても、それは後世ではたった数行のインクの染みとして回収されてしまうのだから。

岩明の作風は、歴史というものが必然的に持つ無常観や残酷性と非常に親和性が高く、あるいは彼が作風を歴史的な描写に合わせているのかは定かではないが、『ヘウレーカ』や『ヒストリエ』のような作品を描くに、まさにうってつけなのである。

いま、無常という言葉を使った。『ヘウレーカ』で描かれる歴史絵巻では、まさに万物が無常であり、個々人の抱くロマンを容赦ない時間の流れが飲み込んでいく。その世界を、狂言回しである主人公のダミッポスが冷笑的に見つめる(図3)。

図3:『ヘウレーカ』

ローマのために創られたはずの戦争兵器が、誇り高きローマ兵を虫けらのように駆逐し、その脳みそを地面に撒き散らす。巨大な軍事力を知恵で追い返した栄光の街が、情報漏えいであっという間に征服される。世紀の天才数学者が、酒場のケンカのようなくだらない諍いで命を落とす。偉大な将軍も、巨大なローマ帝国も、それを目撃してきた人々も、みんな歴史の中に消えていった。

暴力と権力に狂う人間たちに対して主人公の放った「ほかにやる事ァはないのか?」という皮肉が、妙に頭に残り続けていた。今回このマンガを買い直した理由を話せば、この言葉にもう一度出会いたかったという、ただそれだけのことなのだ。

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投稿日時: 2019/09/27 ― 最終更新: 2019/09/28
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