山口貴由『蛮勇引力』1巻, 白泉社, 2001年

『蛮勇引力』ほど「これは山口という作家にしか描けまい」と思わせるワンアンドオンリーな作品はない。元々非常に個性の強い作家ではあるが、これはその中でも随一である。

古くは『サイバー桃太郎』から『覚悟のススメ』まで突き詰められてきた山口貴由という作家の理念、それは「愚直であれ」ということ。「おまえの信じるおまえであれ」ということだ。

彼の作品全体に通底する精神として、世の中の効率主義だとか、小利口に振る舞おうとする人間の矮小さへの反発というものがある。それが『覚悟のススメ』のキャラたちが相手の攻撃を受けても「余裕だぜ」と不敵に笑っている様子に表れている。山口は合理性をあえて投げ捨てて見せることで、合理によって覆い尽くされつつある人間尊厳を浮かび上がらせようとした作家である。

管理社会 vs. 蛮勇

『蛮勇引力』の舞台は、まさに山口的な信念と真っ向から対立する、人間の合理的精神が頂点に達しつつある未来の管理都市「神都」であり、全ての生命や都市機能が機械化されていく(図1)。これは古典的なSF描写でもあるが、本作が連載され始めた2000年代、ネットの急速な普及と共にヒト・モノの均質化と平均化が進み、「私を私たらしめる何か」が失われいく社会のメタファーでもあるだろう。

図1:『蛮勇引力』1巻

そして主人公の由比正雪(ゆいしょうせつ)はそのようなディストピアで、時代錯誤の入れ墨と刀をこさえて、圧倒的に多勢の「均質化する文明人」に対し「考える野蛮人」として、単身戦いに身を投じる(図2)。

図2:『蛮勇引力』1巻

つまりこの主人公は、山口の理念や美意識そのものを体現する存在であり、それと完全なる対照関係にある管理社会との対決を描くことによって、その作風は一層鮮明化している。時代に逆らうかのような彼の作風と、それを飲み込まんとする社会との対立のアレゴリーが『蛮勇引力』なのだ。

合理 vs. 非合理

作中で、主人公の背中に渦巻く龍の入れ墨が何度も強調される。なぜ、主人公はこうも入れ墨を誇示して見せるのか。

それは入れ墨こそが、合理主義の塊である管理社会に、真っ向から対立する非合理の象徴だからだ。入れ墨には何の機能性もない。彫る過程はただ苦痛で、それを身に着けていれば人々から煙たがられるだけである。しかしそのような入れ墨をあえて施して見せつけ「おまえらに反逆する」と宣戦して見せるところに、人間精神の輝きを見出すのである(図3)。由比正雪にとっての入れ墨とは即ち、魂の刻印である。

図3:山口貴由『蛮勇引力』2巻, 2002年, 白泉社

作風は『シグルイ』以前の『覚悟のススメ』的な前期山口のものである。つまり「ちょっとキモいぶっ飛んだキャラ」が大量に出てきて、それぞれが己の信念の演説を特大フォントでかましながら激突するというスタイルである。よって本作も当然読者を猛烈に選ぶ。

とりあえず第一話のアイドル総理・中曽根まりによる「いま国会中だぴょーん」(図4)がこのマンガの「キモさ」の第一のピークなので、ここで巻を閉じなければ読み通せる見込みは高い。『覚悟のススメ』や『シグルイ』に比べると、SFらしく生物的なグロさは大分控えめとなっており食事中にも読みやすい。

図4:『蛮勇引力』1巻

正義 vs. 悪

この作品でもう1つ興味深いのは、永井豪の『魔王ダンテ』的な善悪逆転が終盤に組み込まれていることである。

主人公たち反乱分子は作中で「テロリスト呼ばわりされる正義の使者」として描かれるのだが、それが最後「本当にただのテロリストだったのではないか」と、それまで由比正雪ら「正義」に感情移入していた読者に揺さぶりをかける。時期的に9.11テロ事件も反映されているかもしれない。こういった単純な善悪二元論を否定する作風は以後『エクゾスカル零』にも継承されていくのだが、本作はその作風の端緒として意義深い作品である。

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投稿日時: 2019/09/22 ― 最終更新: 2019/09/23
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