柴田ヨクサル『エアマスター』1巻, 白泉社, 1997年

柴田ヨクサルの『エアマスター』という作品は、極めて思想寄りの格闘マンガだと思う。本作がどんなマンガかということに関しては、取りあえず「空中戦が得意な女性格闘家の主人公が、個性的過ぎる格闘家たちと、ひたすらストリートファイトしていくマンガ」だと理解しておけば、それで8割である。

さて、もちろん格闘マンガというのは、大抵、格闘士たちが互いの流儀や信念を語り、ぶつけ合うものである。同じ90年代・2000年代の格闘マンガとして一番比較に適しているのは『グラップラー刃牙』及び『バキ』だと思うが、あのマンガでも「最強の格闘スタイルは何か」「勝利とは何か」といった考えをぶつけ合う場面は頻繁に出てくる。

肉体が思想を反映しているということ

ここで『エアマスター』がとりわけて思想寄りだと思う根拠は、まず1つにはそれぞれのキャラが異常に偏った考えを持つ変態的な部分があり、格闘スタイルもそれを反映して偏っていること。例えば感情の爆発のままに無痛の境地に至り、ひたすら強烈な蹴りを繰り出す坂本ジュリエッタや(図1)、特攻根性の理屈を超えた攻撃を繰り出す北枝金次郎が代表的である。

図1:柴田ヨクサル『エアマスター』15巻, 白泉社, 2002年

つまりここでは、それぞれの格闘士の持つ「スタイル」や「攻撃力」が、キャラの思想をそのまま反映していて、人物の持つ精神の強度や歪みが強いほど、格闘スタイルも奇抜化して威力や強度が増していく。これは逆から見ると、格闘戦が各キャラの思想や生き方の代替的な競争手段となっていると考えることもできる。簡単に言えば「より常識に縛られず、強い自我を持っているやつが勝つ」という構造になっている。これが本作が「思想的な格闘マンガである」と考える根拠の2つ目である。

だからジュリエッタと戦う小西は「完璧な自分のイメージ」と自分を完全に重ねることでパワーアップするという『マトリックス』的な自己超克を果たすし、金次郎の狂気的な気迫は究極の技術にも肉薄する(図2)。

図2:柴田ヨクサル『エアマスター』23巻, 白泉社, 2004年

『エアマスター』の世界観では、自我の強さやプライドへの執着、つまり精神の強さが肉体の強さそのものという関係性がある。これは一般的なマンガにおける「愛や信念が奇跡を起こす」というご都合主義描写とは異なる。『エアマスター』の世界では、最初から精神力による肉体機能への補正がシステムとして組み込まれており、むしろそういった部分を積極的に競い、戦わせるマンガである。

『エアマスター』は格ゲー的

ところでこのような、各キャラが偏ったスタイルや能力を有しており、偏ったままに互いの信念をかけてぶつかり合うというのは、極めて格闘ゲーム的な対戦描写と言えないだろうか。格ゲーというのはまさに観念の格闘戦であり、キャラ選択は思想の選択そのものである(図3)。

図3:Capcom 『ストリートファイター II X』1994年

格ゲーがなぜ面白いのかというと「弱キャラでもやり込みで覆せる!」とか「強キャラで勝つのが正義」とか「この戦い方が面白いんだ」といった思想の戦いが、やる側も見る側も盛り上がるからである。だからキャラバランスは適度に壊れている方がむしろ、こういった思想の戦いが激化して盛り上がり、逆にバランスの良すぎるゲームは開発者の手のひらで踊らされている感じがして、意外につまらない。『ストII X』が長く盛り上がった理由の1つには、青パンや豪鬼といった無法な強キャラの存在があると私は睨んでいる(この辺は『ウメハラ Fighting Gamers!』の記事を参照)。

『エアマスター』もこれと同じで、キャラ同士の思想のぶつかり合いが面白いのである。

本作が発表された90年代は格ゲーブームであり、作中には何度かゲーセンで格ゲーを遊ぶシーンも描かれ、ついには『バーチャファイター』のアキラ(作中ではアキオ)を模倣することで強さを発揮するシゲオなんてキャラも登場する(図4)。本作が「格ゲー的な何か」からインスパイアされていることはアキラか、いや明らかである。シゲオはまさに「キャラに思想を乗せて戦う」を体現する人物であり、このような描写からも『エアマスター』は格ゲー的な格闘マンガと言えると思う。

図4:柴田ヨクサル『エアマスター』14巻, 白泉社, 2001年

なぜ勇次郎は倒せず、渺茫は倒せるのか

さて、ここでマンガの話に戻して、もう一度『グラップラー刃牙』を引き合いに出すと、両者には「登場人物らが自らの信念を乗せたセリフを喋りながら、熾烈な格闘戦を繰り広げる」という共通点があるものの、『グラップラー刃牙』は『エアマスター』に比べれば、まだ大分現実寄りだと言っていい。バキの世界でも精神面は重視されるが、いくら精神的に強くても、その力は肉体や技術の差を覆せない。だから柴千春がいくら根性を見せようと、彼が烈海王を踏み潰すことはできないであろう。

最も象徴的な違いは「『バキ』では勇次郎を倒せないが、『エアマスター』では渺茫(びょうぼう)を倒せる」という点である。この2人のラスボス造形はかなり似通っている。どちらも「最強の肉体を持つ人間が、あらゆる武術を駆使できる」という究極性能の持ち主であり、理屈の面から言えばこの二人は打倒不可能なはずである。そして実際に範馬勇次郎は打倒できない(これに関しては別記事「勇次郎が無敵なのは「格闘史の総体」だから」で詳述した)。

ところが、『エアマスター』のラスボスである渺茫は打倒可能なのだ。それは先述した精神と肉体に関するシステムが強く絡んでいる。『エアマスター』は思想的な格闘マンガだからこそ、ジョンス・リーの「安いプライド」に執着した渾身の発勁は渺茫を押し返すのだし(図5)、自らのイメージを無限に広げ続けるマキは渺茫を超え得るのである。

図5:柴田ヨクサル『エアマスター』22巻, 白泉社, 2004年

柴田ヨクサルという作家は、これ以降も思想の戦いを描き続けている。代表作『ハチワンダイバー』は、言わば『エアマスター』の格闘技を将棋に変えたものだし、『東島丹三郎は仮面ライダーになりたい』でも「俺が仮面ライダーだ!」という信念が現実を変えていく。思想を戦わせるというのが、柴田ヨクサルの一貫した作風なのである。

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投稿日時: 2019/09/17 ― 最終更新: 2019/09/22
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