『バード ~砂漠の勝負師~』イカサマでなければ麻雀ではない

青山広美『バード―砂漠の勝負師』1巻, 竹書房, 2000年

野球を「戦争」に変えてしまったのが『ワンナウツ』なら、麻雀を「戦争」化したのが本作『バード ~砂漠の勝負師~』である。青山広美がまだ読者に媚びず、作家性が強かった頃の作品であり(最近は……)、全2巻と小品風ながらイカサマ麻雀マンガとしての先進性、天才主人公とライバル雀士にある「欠落」や「歪み」の描写など、味わい深い作品となっており、繰り返し読むに値する傑作と感じる。

ラスベガスから日本へ麻雀勝負にやってきた天才マジシャン・バードの麻雀理論は、最初から究極の域にある。簡単に言うと、この主人公の考えでは「麻雀というのは毎回、天和か地和で和了ることを目指すべき」なのである(配牌の時点で和了っているということ)。実際にはここまで究極な戦術は終盤まで完成しないのだが、それでもバードが麻雀を始めるとダブルリーチしかしない(図1)。すり替えによる和了しか眼中にないためである。

図1: 『バード ~砂漠の勝負師~』1巻

そして『バード』の麻雀理念を言い表した名台詞が以下である。

『チー・ポン』は他人の捨て牌をかすめ取る時の格好のカムフラージュだ。『カン』は王牌をすり替えるための十分条件。多牌は多いほど有利。裸単騎は最高の多面張。誤ポン誤チーは戦術上の重要なオプション。

『バード ~砂漠の勝負師~』 1巻

バードは天才マジシャンであるが、麻雀は素人である。しかしこの状況がむしろ、彼を最強の雀士へと変えた。

バードには麻雀に対する美意識が一切ない。執着がない。技術だけは最高なのに、こだわりが全く無い。普通の打ち手にバードの真似が出来ないのは、上達の過程に美意識が必要だからである。美意識が技術を育てるが、同時にイカサマの幅を狭める。何故なら雀士にとって、麻雀をあまりに破壊するイカサマをしては、麻雀をする意味それ自体が消し飛ぶからである。だから奇妙な話なのだが……彼らは「ルールを尊重しながら」イカサマをする。

ところがバードには理想とする打ち回しも、追うべき打ち手の背中も存在しない。だからこそ彼にとって、麻雀はあくまで手続きだし、プレイヤーとしての理念からも自由でいられる。とんでもない破壊的なイカサマを初めから実行する(図2)。

図2: 『バード ~砂漠の勝負師~』1巻

バードにとって麻雀とは、まさしく「戦争」である。

「戦争」においては、偽情報から女まで、あらゆる手段を動員するのが当然であるし、むしろ「卑劣な手段」を使わないということは、全面闘争に対して真摯に向き合っていないとすら言える。

こうしてこのマンガでは、麻雀の規則《ルール》はただの条約へと格下げされ「何を驚いている?『ツモ』とは不要牌を山に戻す作業のことだろ?」という台詞が当たり前のように出てくるようになったのである。

サイコパス雀士・蛇という傑作キャラ

さて、ライバルとなる伝説の雀士・蛇だが、リメイク版の変態と違い、平凡な振る舞いと裏腹の残虐性が上手く表現されており、ただの麻雀描写で終わらせないサイコスリラー的な面白みを本作に付加している。殺した人間を、平然と肥料として庭に撒いている描写など特に強烈で、異常犯罪モノの映画を観ているようなヒヤリとした感覚がある(図3)。

図3: 『バード ~砂漠の勝負師~』1巻

バードが究極なら、蛇もまた究極である。蛇は一歩先にバードの求める世界にたどり着いている。つまり蛇は「全自動卓天和」という、バードの考える麻雀の最強形を既に実現している。ここからいかにバードが蛇の技を破り、天和という特権を我が物にするかが、バード vs. 蛇の勝負の眼目である。まあそんなわけで、普通の麻雀の出番は一切ない。

図4:青山広美, 山根和俊『バード 〜最凶雀士VS天才魔術師〜』 1巻, 竹書房, 2011年

なお本作にはリメイク版となる『バード 〜最凶雀士VS天才魔術師〜』が存在する(図4)。『ギャンブルフィッシュ』以来組んでいる山根和俊との共作なのだが、このコンビの特徴としてエロゲー並にお色気描写(というかほとんどただの変態プレイ)が多いので好みが分かれるだろう。

マンガの記事一覧

LINEで送る
Pocket

投稿日時: 2019/09/13 ― 最終更新: 2019/11/27
同じテーマの記事を探す