福本伸行『賭博黙示録カイジ』1巻, 講談社, 1996年

一般的に『カイジ』というと、即興創作ギャンブルによる知能戦を勝ち上がる博打マンガの草分け的作品という認識が強い。『カイジ』は、借金の末に億万長者の仕組んだ巨大なゲームで戦うことを余儀なくされた男たちの知恵比べの物語である。

この世界では秀才的な努力が報われない傾向にあり、それよりも現場の機知、臨機応変の才が勝者の資質とされ、事実、主人公カイジは社会の底辺的フリーターであったにも関わらず、利根川のような社会的エリートをも出し抜いてギャンブルを勝ち上がっていく。

煮詰まりつつある格差社会・学歴社会の上下構造は、真の能力的優劣を無視した偽りのものであり、「目覚めた下層の者」であるカイジがその構造を打破し、転覆させる階級闘争にマンガのカタルシスを見出すことも、あるいは可能かもしれない。ありふれた言い回しをすれば「底辺の人生逆転劇」というやつだ(実際、実写版にはそのようなタイトルがついている)。

『カイジ』とそのフォロワーの差異

ところで『カイジ』以降、本作の「限定ジャンケン」(図1)に代表されるような即興創作ギャンブルによる知能戦、予測もつかぬトリックの応酬をウリにした作品は色々出た。

図1:『賭博黙示録カイジ』1巻

有名どころだと『ライアーゲーム』『嘘喰い』『賭けグルイ』などがある。それらの中には、ゲームやトリックの質の面で『カイジ』を上回っていると思われるものもある。そうなるとご存知のように、福本作品は絵が魑魅魍魎じみているので、そのシステムがコピーされてしまえば『カイジ』は過去の作品になりそうなのだが、これが中々色褪せない。というより今でもオンリーワンの作品に思えるし、そこにこのマンガの真価があるように思える。

作者の作風変遷として、よく「福本はしがない人情モノ作家だったが、90年代にギャンブルマンガにシフトして大成した」と語られる。これは概ね間違ってないだろうが、表面的な変化に過ぎないようにも感じる。『カイジ』や『アカギ』を繰り返し読んでいれば、その真の魅力は表面的な出し抜き合いによるマウント合戦にあるのではなく、福本の鋭い観察力による人間心理の活写にあると気づく。

この作者は、人間の抱える性<さが>と、その性が社会と絡み合って生み出される不条理を巧みに言語化する。福本が描いているのはギャンブルではない。ギャンブルに飲み込まれる人間である。福本は「人間を描く」という点で一貫している(図2)。その人間を描く手段として、ギャンブル描写が人気を得やすいからそれを用いているのか、ギャンブルこそが人間本性を浮き彫りにするから題材にしているかは微妙なところだが、まあそれは同物の両面であり読者にとってはどちらでもいい。

図2:福本伸行『賭博黙示録カイジ』7巻, 講談社, 1998年

そしてこれが、他のギャンブルマンガと福本マンガの決定的な差異なのである。凡百のギャンブルマンガは、福本マンガで演出されるような表面的な逆転劇、トリックの意外性こそが作品の本体だと勘違いしている嫌いがあり、作品の数学的な面白さの部分ばかりを模倣・発展させようとする。そしてエンタメとしての完成を目指すのである(なお福本自身でこれをやったのが『賭博覇王伝 零』である)。

ところが福本マンガの要諦は数学ではなく倫理学にあるのだ。倫理、すなわち、ともがらや社会(倫)との関係性から生まれる世の道理(理)である。倫理的な洞察を欠くと、彼の生み出すギャンブル勝負は骨抜きにされてしまう。ギャンブルの極限状態から生み出されるエゴ、そしてそのエゴへの反発に、作品の真のカタルシスがあるのだから。

作品の数学的な側面ばかりを模倣する他のギャンブルマンガは、いきおい、福本マンガとは真逆のテーゼへと突っ走る。つまり「他人を上手く出し抜けるやつ、ルールの穴を巧妙に突ける人間が幸福な勝者だ」という信念である。しかしこれはむしろ、『カイジ』の世界で「悪」として描かれる帝愛側の持っている信念である。

福本はカネの絶対性を肯定しているか

兵藤や利根川のような帝愛グループの長者たちこそは、人間社会の数字上の勝者である。数字上の勝者になるには、ルールの穴を突こうと、反則だろうと、犯罪だろうと、とにかく効率の良いことばかりやっていればいい。人は「要領の良い生き方」「必勝ギャンブル」ばかりやっていると何になるのか?その時、人は帝愛の幹部になるのである。

『カイジ』の世界だけでなく、あらゆる福本マンガを支配する黒幕たちは、このような「悪」である。効率の良いやり方が優れた結果を生み出すことが、数学上の事実である以上、そのことは捻じ曲げられない。だから福本マンガの主人公たちは、最終的に「悪」を打倒できないし、利根川の演説に代表されるように、そういった「悪」たちが壇上から声高に講釈を垂れる世界がいつまでも続く。福本マンガの「正義」はいつだって貧困で、バカみたいに安い賃金で「悪」のカジノの便所掃除をさせられている。

では『カイジ』は、いや福本マンガは、「カネが全てである」と訴えるマンガだろうか?

そしてこれが面白いところなのだが、福本マンガは「カネが全てだ!人の世は面従腹背だ!おまえはそんな人を信じて馬鹿じゃないか!」と、大声で喧伝することを通して、逆に「カネが全てではない」ということを浮かび上がらせているのである。つまりカネの持つ権力、それに群がり支配される人間の卑しさを徹底的に描くことによって、逆説的にカネの絶対性を否定しているのだ(図3)。

図3:福本伸行『賭博黙示録カイジ』5巻, 講談社, 1997年

カイジシリーズでは結末部分で結局、人間的な甘さを捨てきれないカイジが「敗北」を喫し、悪の側が「勝利」する構図のように見え、「あぁ、カイジはなんてバカなやつなんだろう」と周囲に呆れられるのだが、カネを手に入れたということ以外、悪の側の「救い」は全く描かれていない。『カイジ』の悪や裏切り者はむしろ無惨である。

このマンガを読んだあとに「俺も他人を蹴落として大金をせしめなきゃ」という感想を抱く人が、果たしているだろうか。他人を裏切ることの愉悦を予感する読者が存在するだろうか。いない。いないのだ。それこそが「カネが全てではない」というメッセージが福本マンガの通奏低音であることの証左なのだ。

そもそも頭脳戦の末に他人の一歩先をゆくことを目指す悪魔的ギャンブルの数々は、株取引や投機といった富の争奪戦のミラーイメージであり、もしそのマネーゲームに勝利したカイジが、他者の富を奪って「大成」を果たしたなら、それは単に彼がこの資本主義構造に完全に組み込まれ、先行者に代わって既得権益のイスに座したことを意味する。その行き着く先は兵藤の亡霊であろう。

別に私はここで資本主義全般を否定したいわけではないし、金儲けが悪だとかそういう思想を持っているわけではない。ただ帝愛側が仕組んだ欲望と裏切りのゲームを、その構造をそっくり利用して勝利しても(兵藤側に寄り添えば「賢く」勝っても)カイジは人間として破壊されるだけである。それは『銀と金』にて、涙を流しながら「金しかないやろ」と語った川田のような痛ましさである。

カイジには救いがなければならない。だからこそ彼は見苦しくジタバタと戦わねばならないし、「大金をせしめて家に帰りました」などという薄気味悪い“バッドエンド”は回避されねばならない。

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投稿日時: 2019/09/05 ― 最終更新: 2019/12/07
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