福本伸行『アカギ』1巻, 竹書房, 1992年

福本伸行が生み出したキャラクターの中でも最高傑作であると同時に、作品を超えて暴れまくった存在、それが赤木しげるである。元々『天 天和通りの快男児』(’89-02)内での老兵、シャア・アズナブル的なポジションで登場したのだが、あっという間に作品を喰ってしまい連載中にスピンオフ化、本編を超える人気を博すという点からも、このキャラの規格外ぶりが容易に知れる。このキャラは作者すら超えているのである。

『アカギ』では若年・青年時代の赤木が、いかに麻雀と出会い、神話と化したかが描かれる。 赤木はハナから天才的な存在であり、素人時代から彼独特の理論、つまり一見無茶苦茶で自殺的に見えるが、本人の中では筋が通っている彼独自の人間哲学に基づいた異常麻雀を実行に移して、「みんな何故こんなことが分からないかね?」みたいな顔してる。

極端なことを言えば、赤木は麻雀をしていない。彼はただ目前の人間と勝負している(図1)。だから彼にとって、人間心理が色濃く反映される勝負をすれば、どれも同じことなのだ。

図1:福本伸行『アカギ』6巻, 竹書房, 1996年

一般的に麻雀マンガでは、まず常識的な打ち方というものがあって、勝負どころで非常識が顔を出すものだが、赤木はそんな常識麻雀に全く興味がない。人間心理を知り尽くした彼の中では、このゲームは最初から結論が出ている。そしていきなりマイナスを競うかのような非常識麻雀を平然と振り回す。そこからトップダウン式に彼の人間理論を辿り、解明していくのが『アカギ』というマンガである。

赤木というのは虚数的な存在だから、実数世界に生きる他の凡人は彼を理解することができない。彼の麻雀は2乗してマイナスになるが、4乗するとプラスに転じており、とんでもない出鱈目に映る。デカルトは虚数を認められずに「そんな数が存在するはずはない」と激怒したのだが、これと同じで周囲の勝負師は、永遠に実数上の座標平面に束縛された麻雀しか打てない。従って複素平面を漂う赤木にいつまでも翻弄され続ける。確率論に固執した偽赤木などはその際たる例である。

人間対人間という時点で、このように他者が認識できない次元で戦える赤木には圧倒的なベースの差があり、麻雀の経験値でいくら劣っていてもお釣りが来るほどの圧差で勝つことができるのだ。

赤木だけが残せる“強さの人間哲学”

赤木のもう1つの魅力として「彼は作者の“強さの人間哲学”の集大成である」という点がある。

福本マンガの大きな魅力の1つが、実社会にまで貫通する心理描写や人間哲学にあることは論を俟たないが、福本哲学の根本には「人間は弱い存在である」という前提がある。従ってその人間哲学を体現するキャラクターたちも、皆必然的に不完全な存在となる。

例えば天も、カイジも、森田も、決してパーフェクトな存在ではない。だから彼らは「金欲しさにギャンブルしてるわけじゃない」なんて達観には最後まで至らないし、言えない。福本キャラは結局のところ皆凡人であり、インパーフェクトであるが故に彼らは人間を体現できるのだが、それはあくまで人間の弱さに立脚した“弱さの人間哲学”だというフラストレーションが常にある。

一方で赤木は、福本作品の中で最も高みまで上り詰めた「強さの体現者」であり、例外的に人間的な弱さを持たない。従って彼だけが福本の理想とする“強さの人間哲学”の全てを堂々と語ることができる。「バクチは理不尽だから楽しいんだ」「ダメ人間になっていい」といった、他キャラがそう言ってみせたくても言えないことを、当たり前のように口にできる(図2)。そうして全てのキャラクターの不足を、その父性で充足させることができる。それが『天』のラストとなる葬式編で如実に表れている。

図2:『アカギ』6巻

赤木は今後も、あらゆる福本キャラたちの「兄貴」として、接近されるべき無限遠点として存在し続けるだろう。だからこそ赤木は福本作品において、唯一無二のスターであり続けるのだ。

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投稿日時: 2019/09/05 ― 最終更新: 2019/09/28
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