『嘘喰い』(’06-17)というギャンブルマンガは、入り組んだ勝負内容や独特の世界観により、ハマる人はとことんハマるが、それ以外の人には近寄り難い作品となっていた。このマンガは明らかに『カイジ』(’96-)のフォロワーであり、主人公が大金を賭けて、謎めいた賭博組織の用意する、非現実的とも言えるスケールの「創作ギャンブル」に勝利しのし上がっていくのが、ストーリーの基軸である。これだけなら『カイジ』以降に出現した数多のギャンブルマンガの1つにも見える。

ところがある一点において、この作品は他のカイジフォロワーから隔絶した魅力を放っている。

嘘喰いという道化師

『嘘喰い』という作品の特異性は、主人公である嘘喰い=斑目貘が「読者から最も遠い存在である」という点にある。つまり、読者には嘘喰いが何を考え、何を目的とし、何を楽しみとして破滅的な勝負の連続に自らを投じるのかが、物語のかなり終盤、実に30巻以降になるまで、ほとんど明示的には示されないのである(図1)。

図1:迫稔雄『嘘喰い』7巻, 集英社, 2008年

この主人公に比べれば、むしろ実質的なラスボスにあたる「お屋形様」の方が、その行動原理や目指すところが遙かに分かりやすい。お屋形様は賭博組織「賭郎」のボスとして真っ当に組織力と権力の拡大を図っており、彼は一見謎めいて気まぐれであるように見えて、その実、正常の神経を持った経済人である。

一方で嘘喰いの方は、手に入れた金をいきなり捨てるよう指示したり(3巻)、明らかに経済的に不釣り合いなギャンブルを引き受けたりと(廃坑のテロリスト編)、その行動は常軌を逸しており、周囲の立会人からは「末期のギャンブル廃人」であるかのように語られる。

ここで凡庸なギャンブルマンガであるなら、たしかに嘘喰いは「天才的な才覚を持ったギャンブル廃人」というのが実際のところなのだろう。ところが彼はほとんどの点において、実に「凡人的」なのである。

嘘喰いという「究極の凡人」

確かに「嘘喰い」という呼び名が示す通り、他人の嘘を見抜くずば抜けた直感という才覚はあるのだが、それ以外の点において極めて「普通(=特殊な能力をもたない)」なのだ。

彼は次々にギャンブルに勝っていくのだが、その勝負の内容を追っていると、どうもこの人物は、他のギャンブルマンガの主人公のような、天才的な発想が次から次へと飛び出たり、あっという間にゲームの必勝法を把握して全てを完全掌握できるような超人ではないらしい、ということが分かってくる(初期はそういう部分もあるが)。

実は彼は徹底して「努力の人」なのである。嘘喰いという人物が何故勝ち続けられるのかと言えば、それは彼が、ギャンブルに勝つために全てのもの――彼の全生活時間から健康・肉体・名誉に至るまで――を犠牲にする覚悟が、当然のこととして定まっているからに他ならない。

典型的な例としては、彼は勝負に関して集められる限り全ての情報を集め、あらゆる状況を想定して対策や事前工作を仕組んでいる。また日常的にも、ギャンブルで利用可能と思われる技術や知識を収集し、即興的に組まれたゲームで先手を打てるように備えている(図2)。

図2:迫稔雄『嘘喰い』13巻, 集英社, 2009年

さらに勝負の最中にも毛ほども油断することなく、あらゆる危険性や偶然性を排除すべく、最後まで執拗に相手の勝ち目を潰し続ける。勝負を確実にするためなら、自分の指を切り捨てることも躊躇しない(ここでのポイントは「勝利するためにはそれしかないから」消極的に指を失うのではなく「勝率を上げるために、念のため」積極的に指を損なうことである)。彼の採る戦術を敵側が予測困難なのは、本来避けて当然の「自己犠牲」の戦術を、当たり前のように彼が採用するからである。

こうした徹底的な事前・事後の努力に支えられたギャンブルの結果として、彼は「勝つべくして勝つ」。ところがこのように勝利を掴んでおきながら、彼は決して「自分が何故勝てたのか」を勝ち誇るように説明することがない。むしろ彼は自分が、あたかも幸運に恵まれて勝利したラッキーマンであるかのように、道化を演じ続ける。何故ならそのような名誉の放棄すらも、彼が次の勝負のために仕組む「努力」の一部だからである。

嘘喰いという謎

このような彼の勝利の過程を追い続ける読者は、であるから彼がギャンブルマンガにおける「天才的なギャンブルジャンキー」の類型であるとは信じられない。また以上のような熾烈極まる努力の末に勝利を得ている彼が、それほどまでの代償を払って得たものをあっさり捨てるかのような素振りに疑問をいだき続ける。

では『嘘喰い』とは何だったのか。『嘘喰い』とは、そのような彼の勝負を追っていく中で、何故彼は勝てるのか、何故彼はギャンブルをするのか、嘘喰い自身を解き明かしていくマンガだったのだ(図3)。

図3:『嘘喰い』7巻

そして『嘘喰い』が、嘘喰いという道化の公案を解く物語である以上、彼の謎が解き明かされると共に物語は幕を閉じねばならなかった。これは「世界観系」に属する作品である『AKIRA』(’82-90)や『ブレードランナー』(’82)が、その世界観を描ききったところで終わりを迎えるのと同じ原理である。

恐らく作者の迫稔雄自身にとっても、嘘喰いという人物は謎であったはずだ。作者の中に嘘喰いという究極の道化師の存在があって、彼自身が描く過程でその道化の存在理由を、想像を膨らませながら解き明かしていき(つまり「キャラに動いて」もらい)、解くプロセスを見せることによって『嘘喰い』というマンガを描き上げたのではないか。

というのも『嘘喰い』という作品は、3巻までは全くの凡作であった。本当に安っぽいチンピラマンガに過ぎなかった。それが4巻からわずかに可能性を見せ始め、5巻から急激に面白さを増していった。私は作者がこっそり交代したのかと疑ったほどである。それは恐らく、この時期に嘘喰いという人物が、他のマンガに出てくるギャンブルジャンキーの模造ではなく、独創的な謎の存在として独り立ちしたからだろう。彼という人物なら、いかなる行動を取るかというトップダウン式の思考法によって、作品は作者を超えたのである。

(そういうわけで『嘘喰い』は5巻から読み始めるべきである。それでほとんど問題ないし、1巻から読み始めたら途中で読むのを止めてしまうかもしれない)

他の「天才ギャンブラー」との違い

繰り広げられるギャンブルよりも、ギャンブラーその人に謎がある。これが他のギャンブルマンガとの決定的な違いである。例えば『カイジ』の主人公カイジは、最初から能力の限界が見えている。彼は基本的にはただの冴えないフリーターであるが、限界まで追い詰められることで、正気を失うのではなくむしろ知性が冴え渡るという特性を持っていた。それによって瞬間的に読者の想像を超え、限界の見えない存在へと昇華されるのだが、直後には再び能力の天井が明らかになってしまう(図4)。

図4:福本伸行『賭博黙示録カイジ』2巻, 講談社, 1996年

そうして常に勝利が可能なギリギリの位置まで成長を繰り返すカイジと共に、どうすればギャンブルに勝てるかを、カイジと同じ視線で凝視する。それが『カイジ』というマンガであり、『カイジ』は正しくギャンブルマンガである。『カイジ』の焦点は、目前のギャンブルそのものにある。カイジも「普通の人」だが、彼の能力や動機は明白であり、謎がない。

『アカギ』(’92-18)はどうか。『アカギ』における主人公・赤木は、最初から天才であることが明らかである。それによって彼は全て説明されている。つまり赤木が超人的な才覚と胆力によって凡人を蹴散らすことが可能なのは当たり前のことなので、赤木にそれ以上の疑問は生まれない。「赤木にはそれができる。だって天才だから」というだけの話である。後は彼がどのように「必死」を「必勝」に変えるのか、その魔術に関心が払われる。赤木は謎めいておらず、彼はただ尊敬の的である。

これは『嘘喰い』と同時期のギャンブルマンガ『ライアーゲーム』(’05-15)の秋山に関しても同様だ。赤木も秋山も、作品内ヒエラルキーを超越した存在であり、確かに理解不能な部分はあるのだが、それは彼らが天才過ぎて理解不能というだけに過ぎない。ここが「究極の凡人」嘘喰いとの違いである。嘘喰いは「恐らく理解可能な道化師」なのである。その歩み寄りの可能性によって、『嘘喰い』は「嘘喰いとは何か。嘘喰いと我々の何が違うのか」を読み解くマンガになったのだ。

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投稿日時: 2019/08/14 ― 最終更新: 2019/09/23
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