『シグルイ』論、主人公が敗北を重ねることの歪み

剣戟シーンは、息もできない

山口貴由という漫画家は、果たしてこれほどまでに苛烈な作品を描く人だったろうか。そう考えずにはいられない。二人の剣客の確執と宿命的な果たし合いを描く作品なのだが、真剣による決闘の描写が、読み手の精神すら消耗させるほど緊迫感と苛烈さに満ちている。今読み直しても、読む度に心がすり減る感じがある。

私は多分、剣戟シーンを読んでいるときに息を止めてしまっているかもしれない。『シグルイ』では、刃が交錯する段階まで来ると、擬音も台詞も全く無い。画以外に何も描かれていないページが何ページも続き、瞬間瞬間の人物の表情や動作が、ほぼ静止状態のまま切り取られる。そういった、コマの中での時間の流れさえも最小に抑えられた「高速度カメラで撮ったかのような静止画」を連続することで、真剣勝負における一瞬の攻防の様子が分解・観察され、瞬間は数十秒にも延長される(図1)。そして刃が振り切られた直後に、画の中に再び音が、声が、時間が、怒涛のように「押し戻されて」くる。真空空間に空気がなだれ込むかのように。

図1:『シグルイ』

『シグルイ』では「時間の流れる速度」が、全く一定ではないのだ。緊張感が高まると、いつの間にか時間の流れが遅くなり、音も聞こえなくなる。その場にいるかのような緊迫感による生理作用が再現されることで、読者という立ち位置を喪失してしまう。静と動のコントラストは流れる刃の鋭さを一層強調し、斬られた瞬間に内臓の詰まった「物」と化していく生命の脆さを浮かび上がらせる。

『覚悟のススメ』の時代から「飛び出る内蔵を描かせたら日本一」と言わしめたが、少年誌に掲載していたこともあってかギャグも混じり、可愛らしい描写も多かった。ところが『シグルイ』では、そのような中和剤は一切用意されていない。剣客同士の壮絶な闘いが壮絶なまま、剥き出しの状態で紙面に晒されている。待望の作品を漫画化できたための熱量からか、はたまた南條範夫の原作を背負っているための緊張感からか、そのクオリティは過去作を明らかに凌駕する。

ドラマツルギーと役割の「ねじれ」

(以下、ネタバレを含むので注意)

話は最初から最後まで、藤木源之助と伊良子清玄(いらこせいげん)という二人の天才剣士が、いかにして御前試合で死合いをするまでに至ったたかの経緯を描くことを軸とする。この二人に対しては、どちらにも同じくらい濃厚なエピソードの描写が割り当てられている。よって単純に「二人の主人公が併存するストーリー」と説明することもできるのだが、ドラマツルギーの観点からは、この二人のポジションが奇妙にねじれているのが、本作のストーリー展開のミソである。

まず1巻を読んだ時点では「藤木が主人公で伊良子がライバル」という構図があるような気がする。物語がやや藤木視点寄りで進行するし、藤木は「正」、伊良子は「邪」の記号を有しているように見えるからだ。比較すると以下のようである。

  • 藤木は「構えは上段、真面目、誠実、道場の跡継ぎ筆頭」(図2)
  • 伊良子は「構えは逆手、魔性の色男、嘘つき、道場破りとしての来訪」(図3)
図2
図3

二人の主人公と言っても、伊良子は明らかに「ライバル」としての記号を多く持っている。それは背景も含めた描き込み方からも伺え、伊良子には禍々しさが常にある。そして恐らく多くの読者も、藤木に感情移入して読み進めるに違いない。ところが『シグルイ』で起こるほとんどの出来事の中心にいるのは、藤木というよりは伊良子なのである。

例えば冒頭での道場破りのシーンでは、颯爽と現れた天才剣士・伊良子に、藤木はまるで噛ませ犬のように蹴散らされ、周囲の関心は一挙に伊良子に集まる。いきなり物語の中心から蹴落とされてしまうのである。

「彼奴め、天禀がありおる」
「否、彼奴はすくたれ者にござる」

「すくたれ者」(臆病者)と言っているのは負けた藤木で、負け惜しみを言うような格好になっている。

その後の奥義伝承の際にも藤木と伊良子の対決があるが、藤木の闘いは薄暗い復讐戦として描かれており、元々手負いだった伊良子を執拗に追撃する見苦しさを見せてしまう。おまけにその後の騒動でも、やはり事件は伊良子を中心として展開するのだ。まるでシャアがアムロを毎回敗走させているかのような「ねじれ」がある。

この「ねじれ」が最高潮に達するシーンは、物語中盤の仇討ち勝負においてである。この仇討ち勝負において、藤木は「主人公」即ち「勝者」足り得る、十分過ぎるほど資質を持ち、お膳立ても完璧であるかのように見える。物語のあらゆる要素が「伊良子敗残」に向かっているように感じる。にも関わらず、藤木は接戦の末に伊良子を追い詰めながらも、紙一重で敗北してしまうのだ!

この悪魔的な勝利に、伊良子自身が思わず吹き出す。

「若…若先生が敗れた…?」
(くふっ、くふっふぅ~ぅ)
こみあげる喜悦を悟られぬよう、清玄は手で面を覆った
宿敵の出血の音が停止したのだ
「やるせなきかな…我が剣は呪われしか…」

伊良子は、キャラクター属性としては「ライバル」のポジションに立つように見える。しかしドラマツルギーの持つ収束力、即ち『シグルイ』世界の運命の強制力が主役たらしめんとする存在、物語の終盤まで中心にいる「主人公」は常に伊良子なのだ。一方の藤木は、ひたすら周囲の失望を買うだけである。

アニメ放送に先駆けたインタビューにおいて、山口貴由はまさにこの「ねじれ」に対し、南條範夫作品に通底する「残酷」という概念を見て取っている。

善なる者が報われない、一生懸命努力した人が報われない
そういう世界である事が「残酷」だな、と思います

物語の「ねじれ」が生み出すフラストレーション――即ち、勝利を積み重ねるべき「本来の主人公」が、逆に無様な敗北を重ねるというシナリオの「狂い」に対する、「これが結末であってはならない」という、物語の「残酷」に反抗する「祈り」、これこそが読者に先の展開を読ませ続ける駆動力となっているのである。

そしてこの点が非常にトリッキーなのだが……『シグルイ』はそのようなフラストレーションを駆動力として物語を推し進め、最後に物語の時間を、始まりの御前試合まで「巻き戻す」。しかし第一話の「続き」であるはずのその決闘シーンが、読者には今や全くの別物にしか見えないのである。

冒頭と最終場面は「別物」

物語は最初「隻腕の剣士 vs. 盲目の剣士」という、一種の「イロモノ対決」として衆目を集めた。

隻腕の剣士の刃は骨を断つことができるのか?
盲目の剣士の刃は相手に触れることができるのか?

読者の期待感も当然、この異色の剣士たちがどのような奇異な技の応酬を繰り広げるのかという、興行に集う見物客のような好奇心から生まれる。ここでは、読者の視座は決闘場を囲む多くの見学者たちと一体化している。ここにあるのは「サーカスの悦楽」である。

ところが対立の始原まで遡り、その死闘の歴史を、藤木の無念を、伊良子の苦悩を味わいながら辿り、二人がいかに互いの奥義を破るべく研鑽を積み重ね、どうしようもない宿命的確執の末に決闘に臨むかを知った後で冒頭のシーンに戻るとき、もはやそこには「隻腕の剣士 vs. 盲目の剣士」などという、表面的な構図は消え去っている。そんなことは二人の決闘において、全く中心から外れたものである。冒頭において周囲の見学者に一体化していた読者の視座は、ここにきて決闘者たちと一体化する。状況そのものは物語冒頭から全く変わっていないにも関わらず、この決闘の持つ歴史性が、闘いの風景を鮮やかに変えてみせる。

あの夏の日、出会って以来
源之助が清玄を想わぬ日があっただろうか

“誇り”だ
伊良子清玄は源之助の“誇り”そのものだ

心から憎い相手がいること。その憎しみを毎日胸に抱いて生きること。いつか、憎い相手の存在が人生の一部となり、自分自身を変えていることに気がつくこと。

闘いを前にして二人が互いのことを認め合う。果てしない確執の末に両者の運命が交わるのは一瞬。交じった直後に、急速に離れ離れになっていく。

『シグルイ』、傑作である。

出典

図1:山口貴由(画), 南條範夫(作)『シグルイ』8巻 秋田書店
図2,3:山口貴由(画), 南條範夫(作)『シグルイ』1巻 秋田書店

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投稿日時: 2018/09/02 ― 最終更新: 2019/09/18
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