投稿日時:2019/05/23
図1:鳥山明『ドラゴンボール』カラー版 ブウ編7, 集英社, 2013年

子供の時は『ドラゴンボール』でベジータが悟空をどうしても超えられない現実を、基本的には素質の差だと考えていた。ベジータはブウ編の最後の、名台詞と名高い「おまえがナンバー1だ」の独白の部分において「自分が悟空に勝てない理由」をつぶやくのだが(図1)、これが子供時代の自分には分かったような分からないような理屈で、結構漠然と受け止めていた。 「悟空はみんなのために戦うから強いんだ」みたいな感じで。

勝つ vs. 負けない

勝つために戦うんじゃない。ぜったい負けないために限界を極め続け戦うんだ…!

『ドラゴンボール』カラー版 ブウ編7

「負けないために限界を極め続け戦う」とはどういうことか。「勝つために戦う」ことと、どう違うのか。この2つは、字面の表面的な意味においてはほとんど同じことである(勝つ≒負けない)。しかし直前の「オレは、オレの思いどおりにするために…」や、直後の「相手の生命を絶つことにこだわりはしない」といった文脈、そしてベジータの行動原理を考えてみると分かりやすい。

つまりベジータにとって闘争とは、敵の征服を意味していた。生殺与奪の権利を握ることは、ある個体への究極的な征服の形態である。ベジータは自分の満足のために、敵の征服を目指して戦う。ここでは戦闘行為そのものは征服のための手段であり、戦闘に勝利しなければ本来の目的は達成できない。だからベジータにとって、戦闘に勝利することと相手を殺すことはほとんど同時的なことであり、どんなに白熱した戦いであっても、敗北すればその戦いは完全な失敗に終わる。だからベジータは勝つために戦う。

一方で悟空は戦闘そのものを目的としている(=戦うことが楽しい)から、ベジータと違って相手の生命を無理に絶つ必要がない。悟空が殺すのは、ブウのような絶対悪だけであり、フリーザに対してすら直接手を下すことは避けた。確かに悟空も戦闘で強くなることに無上の喜びを見出すが、相手を征服することが目的ではないから、強くなろうとする時の意識は「絶対に負けない」になる(「勝ちたい」という意識は、ベジータのように勝って何かをもぎ取ったり、奪い取ろうとするときに生じる。生命とか、プライドとか、トロフィーとか)。

「勝つこと」と「負けないこと」は、結果としては同じ状態を指しているように見えながら、その内的な動機や、そこに達するまでの過程に決定的な違いを生み出す。そしてその戦闘への姿勢の差は、日常的な鍛錬の場においても如実に現れる。遡って考えれば、「勝つこと」を目的とし、戦闘が「手段」と化しているベジータは、日常の修行の質において悟空を上回ることができない。これが悟空とベジータの差だと思える。

目的意識の差が生み出す修行観の違い

日常の修行への考え方や取り組み方の差、これが一番よく表れているのがセルゲーム直前の描写であるように思う。精神と時の部屋から出てきた悟空は、ベジータに「音をあげたか」と挑発され、やろうと思えばまだ過酷な修行を積めるものの「そんなものは修行じゃない」と鍛錬を中断する(図2,3)。

図2:鳥山明『ドラゴンボール』カラー版 人造人間・セル編 6, 集英社, 2013年
図3:『ドラゴンボール』カラー版 人造人間・セル編 6

悟空は修行オタクのようなところがあって、作中に何度も出てくる描写から、強くなりたいと思うと修行したくてたまらなくなる性格であることが分かる。悟空にとって戦いも修行も楽しいものであり、それ自体が目的化している。だから逆に「つらいだけの修行」というものを悟空は拒絶するのである。

一方でベジータにとって、修行とは「勝利という報酬を得るために行わなければならないつらいこと」である。彼にとって修行や戦闘それ自体は真の目的ではないから。しかし彼はエリート体質でストイックだから、つらいことでも黙々とこなす。「つらいことをやっているから、自分は強いんだ」という誇りすらある。それが上記の「部屋の過酷さにとうとう音をあげたか」という挑発に表れている(=「おまえよりオレの方が過酷な修行をしているから、オレの方が強い」)。

ところが本心では修行自体を決して望んでいるわけではないから、修行そのものへの集中力やモチベーションなどで悟空を上回ることができない。これは現実世界でも非常によくある現象で、例えば有名な『論語』にも「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」(あることについて知っているだけの者は、それを好んでいる者には敵わない。あることを好んでいるだけの者は、それを楽しんでいるものには敵わない)という言葉がある。ベジータは自分の目的を達成させてくれるから、修行を好んでいる。一方で悟空は修行を楽しんでいるのである。

悟空が天才型なら、ベジータは秀才型である。恐らくベジータは、仮に自分が宇宙最強になり、この世から敵がいなくなったとしたら、修行を止めてしまうであろう。一方の悟空は、仮に無敵になったとしても、まだ延々と修行を積むのではないかというフシさえある。

この悟空とベジータの対比には、鳥山明の価値観や人生観が表れているようで面白い。単純なバトル漫画のようで、こういう哲学がさり気なく盛り込まれているところが『ドラゴンボール』が長く読まれる理由であると思う。

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