
人造人間編からセル編にかけては、一般的に他の章より低く評価されているかもしれない。完成度の高いフリーザ編や、本当の完結編になった魔人ブウ編に挟まれて、物語としてはやや宙ぶらりんな状態であり、加えて魔人ブウ編の存在によって「悟空が次世代へバトンタッチする物語」という図式が後から崩れてしまった。
ただ個人的には、ちょうど人造人間編付近からしっかり『ドラゴンボール』を追いかけるようになったので、セル編は印象深いエピソードである。だから擁護したい点がいっぱいある。タイムトラベルが多層的に発生したり、荒廃した未来が存在するSF的な展開は他のエピソードにはないし、人造人間の製造目的や、未来からやってきた謎の生物の正体が徐々に明かされるサスペンスに満ちたストーリーもセル編ならではだ。
もう1つ気に入っているのが、悟空が修行してもセルに勝てなかったこと。物語的にはこれが最大の特徴になっていると思う(図1)。

悟空はセルに勝利してはいけない
セル編を「旧世代の力の結晶を、新世代の人間が打ち破る物語である」とする分析は、既にやまなしレイさんが行っている。「『ドラゴンボール』終了のタイミングを考える」における考察に、私も深く同意する。
以前にも書いたことですが、人造人間やセルは“旧世代”の力の結集なんです。そもそもレッドリボン軍の生き残りという辺りが“過去の呪縛”とも言えて。“旧世代”の技術によって作られた「最強」の生物セルを、“新しく生まれてきた”悟飯やトランクスが打倒することに意味があったのだと思います。
『ドラゴンボール』終了のタイミングを考える (「やまなしなひび-Diary SIDE-」)
悟空はそれまでの物語で、常に「修行を重ねて限界を乗り越え続ける人間」だった。悟空が成長を続ければ、どんな強敵も最終的には必ず打倒してくれる。それが少年期も含めた『ドラゴンボール』というマンガのドラマツルギーであった。
ところがセル編の最後でこの構造が崩壊する。悟空は最後の修行を終えて精神と時の部屋から出てくるが、それでもなお「セルに勝てない」ことを自覚する。この力関係はしつこいくらい確認が繰り返される。完全体を瞬間移動で確認した直後に、いきなり「オラはたぶん勝てねえだろうな」と発言し(図2)、さらにカリンにも力を比べてもらって、勝てないことに太鼓判を押してもらう。セルゲームが始まると、亀仙人も「悟空は勝てないことを知って戦っている」と指摘する(図2)。

しかしこれは物語としては当然の話で、悟空はセルに勝利してはいけないのである。なぜならセルは、悟空やピッコロ、フリーザなどと同種の力を持ち、なおかつそれがフルパワーを発揮できる状態になっているから。すなわち、セルは旧世代の戦士たちの上位互換的存在であることが作品によって明示されているので、もし仮にセルが旧世代側に敗北するようなことがあれば、それはドクター・ゲロの設計が間違っていた(=セルは説明とは裏腹に、悟空の力を完全に取り込めていなかった)ことにしかならない。セルの絶対の自信もまた、彼が悟空たちの力を取り込んでおり、完全体として力を100%発現すれば、負ける道理が存在しないことを自覚してのことと推察できる(セルの力は常に悟空+α)。そしてその限界を突破するのは、次世代を担う人間たちなのだ。
もし仮にセルが悟空に敗北したなら、セルは「技をコピーして強くなった巨大な敵の1人」で終わる。 そうではなくてセルは「主人公と同質」「主人公の特権をも取り込んだ敵」なのである。全編を通して唯一悟空が勝利できない敵である理由がここにある。
スペシウム光線を跳ね返されたウルトラマンのように、ヒーローの不文律が破壊されるとき、そのヒーローの物語の幕は閉じる。少なくとも第一形態のセルが細胞の話をするときに、次世代である悟飯とトランクスの細胞を取り込んでいないことを説明させた時点で、この決着の構図は完成していたはずである。
(ただご存知の通り、ブウ編へと物語が延長されたことで、悟空がセルのパワーを上回れないという力関係は崩壊してしまった)
ドラゴンボールは次世代に託して終わる物語
鳥山明は「次世代へのバトンタッチ・エンド」にはかなりこだわっていたように見える。例えば、完全版やカラー版で加筆された最終場面では、筋斗雲に乗るウーブに少年の悟空が重なる演出がわざわざ追加され、ウーブ登場の意図が分かりやすくなっている(図3)。「親から子へのバトンタッチ」がブウ編の存在で曖昧になってしまったので「また誰かが筋斗雲に乗って、悟空と同じように……」という「冒険譚の輪廻」へと、ウーブの存在によって継承の構図が変更されているのだ。

子供時代に読んだときにはウーブの存在意義がよく分からなかったので、この変更はとても良いと思う。