投稿日時:2019/03/07 ― 最終更新:2019/03/08
図1:Z版ブロリー(『ドラゴンボールZ 燃えつきろ!! 熱戦・烈戦・超激戦』東映アニメーション, 1993年 )

ブロリーの敗北を誰が承服できよう。

ブロリーが初めて胸を貫かれたあの日から、私は折りに触れ、在りし日のブロリーを思い返した。私にとってブロリーこそは、マンガやアニメを全て引っくるめ、最もカリスマ性に満ちた『ドラゴンボール』の敵役であった。ブロリーのあの、天与の戦闘力と凶暴性を己の本能の赴くままに発露する姿、強烈な自我、己の行為に他者の肯定を必要としない生き様にシビれるのである(図1)。

ブロリーには大義も、名誉も、戦う理由すらいらない。「ただ戦って破壊したいから戦う」これ以上に純粋な戦闘理由は存在しないのだ。戦う理由をぐちぐち並べる凡百の悪役と違い、ブロリーは本当に楽しそうにプラネットクラッシュをするし、戦いが楽しすぎて戦闘中にどんどん気が溢れて、全然関係ない空間にもやたら流れ弾が飛んでくる。

暴走特急とでも呼ぶべき果てのない戦闘意欲と、それに付随する無限のバイタリティ。サッカーで例えると、ホイッスルがなるやいなやボールは全部自分で奪うし、シュートも当然全部自分で決めて、試合後整列を無視して隣のコートに乱入していくような感じ。

圧倒的な悪のカリスマとしての魅力は、大魔王ゾーマや範馬勇次郎に通じるものがあると思う。とにかく戦闘が好きすぎるし、実力も自我の強さも圧倒的なので他者の一切の承認を必要としない。ブロリーの魅力はそこに尽きる。

それだけに、そんな絶対的存在だったブロリーが敗北しなければならなかった理由について、私は二十歳を超えても納得できる答えを探し続けていた。

圧倒的に強く見えるのは「戦っていないから」

『燃えつきろ!! 熱戦・烈戦・超激戦 』において、Z戦士とブロリーの間にある戦力差は瞭然である。現在NetflixやAmazon Primeで視聴可能なので、興味があれば確認して欲しいが、ここでは極端な話、戦闘すら発生していない。それを象徴的に表しているのが、動画53分前後の「勝手に頭突きを食らってふっ飛ばされるピッコロ」(図2)「ブロリーが走るついでにラリアットして吹き飛ぶ悟飯&トランクス、蹴飛ばされるピッコロ」(図3)である。

図2:起き上がっただけのブロリーに自ら突っ込み、頭突きを喰らう形になったピッコロ(『ドラゴンボールZ 燃えつきろ!! 熱戦・烈戦・超激戦』 )
図3:ブロリーウォークで蹴飛ばされて死にかけるピッコロ(『ドラゴンボールZ 燃えつきろ!! 熱戦・烈戦・超激戦』 )

これを見て分かることは、あまりにも彼我の戦力差が巨大であるため、ブロリーは攻撃行為ではなく、ほとんどただ身振りをするだけで、Z戦士たちが勝手に悶絶しているということである。

例えば人間が蟻や蛙に相対した際、我々としては単に道を歩いたり「なんか小さいのがいるな」と思って歩み寄るだけで、彼らにしてみれば必滅の一撃が繰り出されているように感じるはずである。これは戦闘とは呼ばない。我々はただ歩いているだけである。同様に、この場面でもブロリーは散歩しているだけであり、時にはただ呼吸しているのみと言ってもいいほどである。ブロリーは呼吸しているだけで、勝手にZ戦士たちは悲鳴を上げて転げ回っている。ベジータに至っては戦意喪失のまま「あいつは伝説の超サイヤ人なんだぁ……」のセリフを3回も繰り返しており、ほとんど鬱状態と言っていい。

このような「散歩してるだけ」「生きてるだけ」で圧倒するシーンには他にも、必殺のかめはめ波を悠然と歩いてシカトしてみせたり、腕を組んだまま悟空とピッコロの攻撃を尽くかわしてみせる場面などがある(図4)。「息吐いてるだけ」と言えば、完全体になった直後のセルも同じように攻撃を無視しているが、あれは圧倒的な防御力でただ全身ガードしているに過ぎないため芸がなく、些か嫌味っぽい。ところがブロリーは、そこにかすかな「生活感」を巧みに漂わせる(散歩、腕組んで体操)ことで「生きてるだけです」感を増大させ、Z戦士と視聴者に圧倒的な絶望を植え付けつつ、自らのエスプリをもアピールしているのだ。

図4:ブロリーストレッチでZ戦士を翻弄する様子(『ドラゴンボールZ 燃えつきろ!! 熱戦・烈戦・超激戦』 )

ブロリー疑惑の死

このように、もはや「戦闘」と呼べる状態すら発生させず、一方的にいたぶっていたブロリーだが、最後の最後で唐突に悟空に敗れてしまう。それも、悟空が仲間から送り込まれたエネルギーをコブシに乗せて殴って即死という、理外の決着である(図5) 。尺を確認してみたが、戦闘シーンは動画の38分から1時間8分までのおよそ30分間、ひたすらブロリーがZ戦士をボコボコにしているだけであり、最後の1分でいきなり逆転されている。これは、野球で言えば30対0の状態でコールドゲームかな?と思っていたら、最後にいきなりホームランを食らって何故か40点くらい加点されて敗北、というくらいの理不尽さである。

上映当時8歳だった私は、まだかなりいい加減な展開でも納得させられる程度には子供だったのだが、それでもこのシーンには驚きを通り越して唖然とした。意味が分からないと思った。その後の映画で披露された前振りナシの「龍拳!!」にも困惑を覚えたが、このシーンの不可解さはその比ではなかった。

映画館を出て、隣にいた友人に「ブロリー敗けちゃったぜ……」とつぶやいた。悟空の勝利ではなく、ブロリーの敗北という圧倒的不条理が私の胸を貫いていた。友人も「うん……」とだけ言い、言葉がなかった。

図5:パンチ1発でいきなり血を吹き出して絶命するブロリー(『ドラゴンボールZ 燃えつきろ!! 熱戦・烈戦・超激戦』 )

ブロリー殺害事件

なぜ、ブロリーは敗北したのか。子供の私には分からなかった。しかし理不尽を前にして思考は続いた。長じて私は「ブロリーは悟空に敗北したのではない。何かもっと別の存在によって殺されたのである」と信じるようになった。悟空は、ブロリーの敗北という結果を引き起こしたファクターの1つに過ぎない。ブロリーは物語を超えた強制力によって、抹殺されたのである。

少し賢しらになった私は、制作側の都合によって殺されたのだというメタな思考をするようになった。しかし段々それも違うのではないかという考えが思考を支配するようになった。

唐突に私は、ブロリーは宇宙に殺されたという結論に辿り着いた。物事に必ず終わりがもたらされるのは、この宇宙の不条理的な法則による宿命である。この世界のあらゆる存在は、何らかの「尺」を背負って生きている。生物で言えば細胞の分裂回数。アニメで言えば放送時間である。それらは、現実であろうとフィクションであろうと、その尺内でしか存続できない存在に与えられた宿命的な生命のスパンである。そのスパンが末端に達したときに、いかに巨大な存在であろうと消滅を余儀なくされるのだ。脳梗塞だとか心臓麻痺だとか、あるいはオカルト・アッパーカットだとか、遡行的に考えれば死因というものは、そのような宿命的な死に因果的説明をもたらすために浮かび上がる現象であり、消滅の一側面に過ぎない。デスノートに「松田桃太」と書かれた時点で、なにはともあれ松田が死ぬことは決まっているのだ。劇場版オリジナルキャラとして出現した時点で、映画の尺がブロリーの運命であることが決定していたのである。そういう点で、ブロリーほど巨大な存在であっても、この宇宙の絶対的宿命から逃れ得ない1つの存在に過ぎなかったと言えるだろう。

しかしこの宇宙的不条理によるブロリー消滅で生じた巨大な余波が、続編で2度にわたるブロリー復活を成立させ、動画文化の中にも未だにブロリーを健在せしめているのではないか。ブロリーは確かに死んだかもしれないが、その存在は忘れ去るにはあまりにも偉大過ぎた。理不尽に死んだブロリーを何らかの形でリバイブさせ続けてしまう人々の衝動もまた、この宇宙の振り子運動の一部なのである。

余談:元気玉じゃダメですか?

ところでブロリーの敗北シーンが不自然になってしまうのは仕方ないとしても、もっとマシな描き方はなかったのかとは、誰しも思うことである。大体あのアッパーは不可解極まりない。エネルギーを分けてもらうという設定も唐突な上に、食らったブロリーがガクガクしながら内部から光線を撒き散らして、まるで呪いでもかけられたかのような(あるいは呪いが解かれたような)、おぞましい死に方をする(図6)。

図6:怪光線を発して爆裂するブロリー (『ドラゴンボールZ 燃えつきろ!! 熱戦・烈戦・超激戦』 )

ここで最大限の妥協を引き出せる決着の付け方は、恐らく元気玉であろう。というか道理的に見て、ブウを消滅させたレベルの超特大元気玉以外には、悟空が勝利する術がない。幸い、近くにはブロリーに故郷を破壊されたばかりのシャモ星人たちが大量にいたのだから、エネルギーを集めるお膳立ては済んでいたはずである。ブロリーはずっと遊んでいたので元気玉生成の隙はあったように思う。そして元気玉は、破壊力においては信頼がある。元気玉の通り道には、同半径の空洞しか残るまいという信頼である。

最後の切り札として元気玉を放つ悟空。伝説の超サイヤ人としての天性の基礎力を過信して、元気玉に正面から食いかかるブロリー。そして敗北。この終わらせ方だったら、子供のときの私は納得したかもしれない。

おしまい

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