投稿日時:2019/02/17 ― 最終更新:2019/03/15

石黒正数の作品が好きなのである。彼は現代の商業マンガの世界では珍しいくらい作家性の強いマンガ家で、数々の短編や1巻完結の中編を描く中で、実験や作風の拡張を重ねてきた、独創志向の人である。『外天楼』は、そんな石黒の2000年代の総決算とも呼ぶべき作品で、彼の好む特撮モノ、エセ探偵、SF、ミステリといったあらゆる要素を盛り込みながら、一見関係の薄い1話完結の小話を連作としてまとめ、単冊でフィルム1本にも匹敵する重奏な物語が浮上する作品となっている。私は今のところ『外天楼』こそ、石黒の最高傑作だと思う。

いや、確かに総決算的な作品ではあるのだが、このマンガはそれまでの石黒から、さらに一歩踏み込んでいる。例えば『外天楼』の最初の話は、エロ本をいかにゲットするかに甲論乙駁の論戦を繰り広げる子供たちを描いた、軽妙なコメディである(図1)。

図1:石黒正数『外天楼』p.5, 講談社, 2011年

こういう他愛もない日常を描いたスモールギャグは、いかにも作者らしい。話数を重ねていくと子供たちが大人になり、アンドロイドが実用化されている未来社会のSFコメディへと変貌し、そこでもエセ探偵やロボットもののストーリーを捻った石黒成分の強い、しゃれっけのあるユーモアが漂っている。

「お約束」の突然の崩壊

ところが巻の中央付近から、どうも不穏の空気が漂ってくる(図2)。いつもの軽いノリでコメディが繰り広げられているはずなのだが、そこに読者が期待しているようなひょうきんなオチがついてこない。おかしい。私は石黒のギャグマンガを読んでいたはずではなかったか。読んでいていつの間にか、異界に迷い込んだかのような、世界が狂ったような感じ。あるいは狂ったのは私かもしれないという錯覚さえ襲う。

図2:『外天楼』p.72

つまりここでは、巻の半分で繰り返されることで読者が学習していた『外天楼』という短編連作のお約束、すなわち物語のコードが破壊されているのだ。例えばギャグ漫画の『こち亀』を読んでいて、もし仮に部長が両津勘吉をパトカーで轢くというお約束の後で、両津がシリアスに死亡してしまい、部長を被告席に立たせた裁判物語へと進展したとすれば、仰天するだろう。そこでは物語が連綿と積み重ねてきたコード(=『こち亀』はギャグ漫画であり、両津が死ぬことはない)が突然ご破産になっており、メタ的なレベルで読者の予想が裏切られているからである。そこでは、物語の基底からの再構築と言えるほどの、破壊的な創造が引き起こされている(この例では、両津が本当に死ぬという現象によって、それまでのギャグ的顛末は一種の伏線として再構築される)。

これ以外の1巻完結の石黒作品を見ても、大学生のくすぶる日常を描いた『ネムルバカ』にせよ、大人たちの可笑しな掛け合いを楽しむ『響子と父さん』にせよ、それらは1話完結ものの連作という点では同じだが、物語のコードは終始保たれていた。各話の中で少しずつ状況や人間関係が変化しながら、最終話でそれらに一定の解決がもたらされるという形式をとっていた。一方で『外天楼』は連作という形式をさらに創造的に活用し、物語の構造をひっくり返してしまった。この衝撃は、彼の作品を長年読み続けてきた読者にとって、より大きなものだったろう。そこでは石黒という作家固有のリズムと考えられてきたものさえ、破壊されているのだ。

つまり『外天楼』は単にそれまでの石黒正数を総決算しただけない。それらをまとめた上で、それを打ち破って脱皮し、彼という作家のさらなる可能性と飛翔を示してみせた傑作なのだ。

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