私、東島丹三郎は山籠りをしている
それは…なぜか?
仮面ライダーになりたかったから
今年40歳になった

柴田ヨクサル『東島丹三郎は仮面ライダーになりたい』1巻,小学館クリエイティブ, 2018年

この漫画を読む人は、恐らく二派に分けられる。40にもなって「仮面ライダーになる」という宿痾の妄執を捨てきれない男・東島丹三郎(とうじまたんざぶろう、図1)が、ショッカー強盗事件に巻き込まれて何故か本当に仮面ライダー的な戦いを開始してしまう、という設定を、本気と冗談が渾然一体となった柴田一流のプロットとして受け取る人たちと、この仮面ライダーオタクの姿に涙を流す人たちである。私は、後者である。

図1:柴田ヨクサル『東島丹三郎は仮面ライダーになりたい』1巻,小学館クリエイティブ, 2018年

つまり私も「持っている」のである。私の「それ」は仮面ライダーではないが、私はある意味では「それ」のために人生が大きく変わり、放浪し、そして「それ」に到達するためにはどうすればいいか、未だに毎日悩んでいるのである。もし私が胸に秘めているこの想いを他人に打ち明ければ、恐らく気が狂っていると思われるであろうから、私はそれを墓場まで断固秘匿する。ネットのレビューにも「自分は仮面ライダーに憧れて格闘技の有段者になった」という書き込みがあった。大人になっても子供のような願望を抱いている人は、存外多いかも知れない。

キャラクターに父性を感じる現代人

子供のときに心の奥底に刻まれた、たった1つの感動が人生の基底美学となり、その後の人生のあらゆる行動・成長・選択がその原体験から派生する形で生まれていく、という人格形成の在り方は、それほど珍しいものではない。否、むしろ人という生き物は、そのように何か一つの感動を起源として、種子から育つ大樹のように、価値観や倫理観を広げていく生物なのではないか。そしてそういった、人に成長を促す感動を放つものが「父性」なのだと思う。そしてテレビや漫画のキャラクター文化から多大な影響を受ける現代人は、いきおいその原点がフィクションの登場人物になりやすい。それは極めて自然なことだろう。

問題は東島のように、フィクションの人物に強烈に取り憑かれるケースである。現実と空想の区別はついている。そもそも冒頭の「なりたかった」という過去形が、冷静な現状認識を描写している。作中でも、東島の行動は「仮面ライダー願望」を除けば実に理性的・現実的であり、自分が不慮の事故などで死んだときに処分されることを危惧して、仮面ライダーグッズを価値の分かる店に全売却するという行動を取っている。バイトと山籠りを往復する禁欲的修行生活の中で、熊をも撃退する格闘能力を身につけた東島は、むしろ自律能力が卓越した「賢い」人間であるとすら言える。そんな東島は、山籠りをしながら考える(図2)。

図2:柴田ヨクサル『東島丹三郎は仮面ライダーになりたい』1巻,小学館クリエイティブ, 2018年

見事な心境描写である。このモノローグは、私のような「こじらせ男子」の心境をそのまま文字化している。なるほど、確かにショッカーは実在しないかもしれない。仮面の戦士はブラウン管に映る幻に過ぎないかもしれない。東島が本物の仮面ライダーになれる日は、永遠に来ないであろう(作中では話の都合として怪人が出現し始めるが)。ではその現実を踏まえた上でなお「仮面ライダーになる」という意志は、一体何を意味するのか。

東島と刹那・F・セイエイ

ここで思い出されるのは『機動戦士ガンダム00』の主人公、刹那の珠玉の名言「俺がガンダムだ」である。この台詞は作品の代名詞として、度々叫ばれる。そしてこの台詞は、字面だけ捉えても意味がわからない。作中世界においてガンダムは「実在する」のだが、ガンダムはロボットだから、人間である刹那が「ガンダムになる」のは不可能である。その点で、有り得ない英雄への同一化願望として、「仮面ライダーになる」のと同じくらい、荒唐無稽である。

この2つの台詞には、映像の世界に浸る中で人格形成した、20世紀以降の人間に特有の同一化気質が表れている。そして「仮面ライダーになる」という台詞の真髄は、その台詞を胸に刻んでから、まさに仮面ライダーにならんと行動を起こす、その瞬間に立ち現れる。変身ポーズを取ったり、ショッカーを思い浮かべながら木を殴ったり、ライダーキックを決める瞬間、その人の人生はわずかに「仮面ライダーに重なる」。しかしその人は本当の仮面ライダーではないから、その「行動」を終えた瞬間、蜃気楼のように「仮面ライダーである私」はたち消えてしまう。だからまた、仮面ライダーであることを繰り返さねばならない。仮面ライダーは、永遠に到達し得ない無限遠点でありながら、そこに到達しようとする行動の瞬間にのみ、目前に迫りくる。刹那においては「ガンダム=紛争根絶者のシンボル」になるべく武力介入する瞬間においてのみ「ガンダムになっている」と言える。

東島の病理

このように不断の「仮面ライダーになる行動」が、仮面ライダーになりたくてもなれない主体に一時の満足、「ちょっと仮面ライダーっぽかったんじゃないか」という瞬間を与えるのだが、やはり本人は紛れもなく仮面ライダーではないので、ふと我に返っては自己を冷静に客観視してしまう。このように現実と空想の断続的な往復を繰り返しながら、いつか「仮面ライダーである自分」がこの身に恒久的に定着するのではないかと夢見てしまうことが、東島のような男の病理なのである。

東島のやっていることと「仮面ライダーごっこ」の違いは、その態度と持続性にある。ごっこ遊びはあくまで仮初の同一化なので、夕暮れになれば終了する。そこには本気で仮面ライダーたらんとする態度はない。一方で東島の場合は、己の生涯を仮面ライダー化しようとしている。東島のそれは、言うなれば「仮面ライダー生活」である。

お前が仮面ライダーだ

ついに憧れの「ショッカー(強盗)」の前でお祭りの仮面を被った東島は、自身を仮面ライダーと名乗りながら涙を流して語る(図3)。

図3:柴田ヨクサル『東島丹三郎は仮面ライダーになりたい』1巻,小学館クリエイティブ, 2018年

「仮面ライダー」と言えば言うほど
言葉にならない涙が溢れた…
子供の頃…仮面ライダーになりたい子供は山程いた…
でも俺は一人だった…
俺のは「仮面ライダーごっこ」じゃないから…
本気…だから…

柴田ヨクサル『東島丹三郎は仮面ライダーになりたい』1巻,小学館クリエイティブ, 2018年

困惑する強盗。30年の祈りを込めて放たれる、万感のライダーキック。

彼の姿は、傍目には滑稽である。しかし私は思う。この男は、仮面ライダーになっていい。仮面ライダーであっていい。変身の二文字と共に仮面を纏う、この哀愁の中年男子を笑うことは、何人たりとて許されないはずだ。東島丹三郎こそが、本物の仮面ライダーである。本作は仮面ライダーがついに現実のものとなる物語を描いた、現代の神話に違いないのだ。

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投稿日時: 2019/01/21 ― 最終更新: 2019/09/17
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