投稿日時:2019/01/16 ― 最終更新:2019/04/13
図:鍋倉夫『リボーンの棋士』第20回, 小学館, 2018年

やはり『リボーンの棋士』は、人生の問いや葛藤に対する省察を台詞に含んでいて深みがある。第20回「辞去」で主人公に敗北した大津新(あらた)の去り際の発言は、似たようなことを経験した者にはグッと胸に迫ってくるだろう(上図)。今回は彼の発言をネタバレ考察したい。

大津は奨励会を自ら辞め、医師となる道を選んだ。そのことに全く後悔はしていないが、さりとて他に大きな趣味もないので、アマチュアとして竜皇戦に参加したという、変わった経歴を持つ。しかし離れていた時間が長過ぎたため、大局観が戻らず主人公に敗北を喫してしまう。その時、安住は今後も大津が将棋を指すものと思って言葉をかけるのだが、大津はそのことをキッパリ否定して、なんと大会を棄権してしまう。その際の台詞が以下である。

でも間違いでした。……来るんじゃなかった。対局しているうちに、闘争心がふつふつと沸きあがってきちゃいました。(中略)やっぱり将棋は趣味にはならないな、勝たなきゃ気がすまなくなっちゃう。


鍋倉夫『リボーンの棋士』第20回, 小学館, 2018年

これこそが「勝負事」との距離感の難しさではないだろうか。

勝負事は、勝利を「全力で」追い求めるまさにその過程に、喜びや興奮が湧き上がる。己の全ての力を尽くし、知性と技術をぶつけ合うことの高揚。しかしそのような興奮の過程を味わうためには、勝利へ向けた、ある程度の持続的な投資を必要とする。何故なら――少し奇妙な話ではあるが――継続的な鍛錬なしには、いざ勝負の際にも「全力」を尽くすことができないからだ。作中で大津が、かつての大局観を発揮できず「盤面にピントが合ってないような」感覚を味わったように、そこには常に「全力」を尽くせぬ自分が感じられてしまう。

もちろん、出せぬものは出せぬのだから、それこそが現状の「全力」ではないか、という指摘もあるかもしれないが、ここでは自身の認識する「全力」と現状での「全力」の乖離に問題があるのである。それが大きなフラストレーションになってしまい、勝負を楽しめなくなってしまう。

これが音楽鑑賞とか読書とかだったら、問題はない。余暇に許される時間だけ、1日30分でも1時間でも、自分のペースでやればいい。しかし勝負事においては、一定のペースで常に走っていないと、そもそも「まともに」付き合うことができない。指や腕の繊細な操作を要求される分野では精度が落ちてしまうし、知的スポーツでもなんだかボンヤリした、大味な内容になってしまう。さらにここでは、勝負にこだわりだすと時間を際限なく使ってしまうという問題もある。実際2巻で安住は、将棋を再開したことで生活バランスが崩れてきていることを危惧している。

勝負の世界に文字通り「生きて」いた時代のバイオリズムから逸脱し、疎外されてしまった感覚。元々住んでいた世界が今は大きく遠のいてしまっていることの再認識。このような喪失感が「ああ自分は将棋を手放したんだな」という大津の台詞に表れている。私は本作を「好きという呪いに立ち向かう物語」であると以前書いたが、この場面でも安住らとは違った棋士崩れの「好きという呪い」への向き合い方が描かれていると感じる。そしてそれは、将棋を捨てるという現実的な選択であった。

最後に安住に送られた「安住さん、本物の将棋バカですよ」は最高の賛辞であると共に、大津のある種の羨望の表れでもあるだろう。

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