絵というものは、捉えきれぬものである。永遠にそうに違いないという確信めいたものまで抱いている。これは絵描きにとってさえ、一生付き纏う問題だろう。

およそ芸術というものはそういう性質の表現で、アマチュアである我々にはいよいよ得体知れぬ五次元領域である。一体美術館でふんふんと首肯している人間の何割が、心の中で本当に得心いっているのであろうか。

結局、芸術というものに向き合ってみては微苦笑し、己の感性の敗北を悟っては解説パネルにこうべを傾げ、連れの友人恋人に「いやぁ、やっぱり名画は、いいね。何か、感じるものがあるよね」とでも語っては近くの喫茶店に逃げ込むのが、大半の教養人の処世術ではあるまいか。

図1:山口つばさ『ブルーピリオド』1巻, 講談社, 2017年

『ブルーピリオド』の主人公・矢口八虎(やぐちやとら)の感性は、まさにこの地点から出発する。物語の口火を切るのは「俺はピカソの絵の良さがわかんないから」という率直な一言だ(図1)。そこから美術で自己を表現する喜びを知った矢口が、東京藝術大学を目指してゼロから模索を始める。

読んでいて、絵の「わかんない」に向き合いながら成長していく矢口に、ワクワクしてしまう。何故ならそこで向き合い、衝突する「わかんない」は、まさに大勢の読者の「わかんない」と符合する、等身大の「わかんない」であり、そこで格闘し自分なりの答えを獲得する矢口に、読者は自らを重ね、この不屈の芸術開眼者と共に、理解のような何か、共感のような何かを掴んだように感じられるからだ。

『ブルーピリオド』は、ただの専門ウンチク漫画とか美大受験漫画ではない(ちなみに作者は芸大出身)。主人公と共に読者が、芸術という途方も無い理解不可能性に立ち向かい道を歩んでいく、王道の成長物語なのだ。

一体絵画とは、芸術とはなにか。我々はどのような思い込みに囚われているのか。

例えば2巻で美術館に行くシーンは、面白い。矢口は元々勉強のできる優等生なので、構図だの線的遠近法だので絵画を理屈分析し、解剖しようと試みる。そこに鑑賞が趣味という友人・橋田悠がやって来て「僕もピカソはそんなに好きじゃない」と言われる。それに続く会話が以下である。

「ここでそういうこと言っちゃまずいだろ…」
「なんで?」
「いや…怒られんぞ」

山口つばさ『ブルーピリオド』2巻

「怒られんぞ」は象徴的な一言で、これは矢口の思考の指紋とも言える。

ケチをつけると「怒られる」という認識からは、ピカソは美術を理解する人間なら評価して当然の存在であり、個人の選り好みを寄せ付けない、美術世界の直線的評価軸の先端に位置しているのだという、矢口が認識が伺える。そうでなければ「怒られる」という発想は生まれない。

つまりここには、ピカソの絵に「絶対的な」素晴らしさが存在するとの誤謬があるのだ(これは「ピカソの絵がわからないから美術がわからない」という冒頭の台詞とも符合する)。ところが橋田はピカソの絵を、何の恐れも迷いもなく「相対化」して見せる。

「僕ねぇ、芸術って“食べれへん食べ物”やと思うねん。スキ、キライがあんのは当たり前や。(中略)芸術は正しいかより、自分がどう感じたかのが大事やろ」

山口つばさ『ブルーピリオド』2巻

我々の一般常識では、あるラーメンを食べて「美味しくない」と感想を言ったことに対し、赤の他人が怒って何か言ってきたら、その人間は味覚の多様性を理解しない独善偏見に満ちたクレーマーと認識していいことになっている。そして食の世界で評価の多様性が許されるように、絵画の世界でも評価の多様性が尊重されるのは当然のことである。橋田はここでそう言っているのだ。

この後、橋田は矢口に「好きな絵を自分で買い付けるつもりで選ぶ」という遊びを提案する。これはまさに「絵を自分の尺度で見る」上で絶好の選び方だろう。買い付けるということは、自分の家に飾る、自分の生活空間に置くということだから、そこに権威が入り込む必要はない。矢口の絵画を観る眼がガラリと変わる(図2)。

図2:山口つばさ『ブルーピリオド』2巻, 講談社, 2018年

階段を上った先に屋上の青空が待っている感覚。『ブルーピリオド』は、既成概念や思い込みが打ち破られ、世界がパッと開ける瞬間を鮮やかに描き出す。そしてその瞬間に読者も同席し、絵画の「わかんない」を徐々に咀嚼して芸術の世界に向き合い、自分なりの価値観、物の見方の発見体験をする。読み手も読書を通じて世界を広げていけるから、本作は刺激的で面白いのだ。この漫画を読んで藝大を目指す人達が、きっと出てくるだろう。

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投稿日時: 2019/01/13 ― 最終更新: 2019/10/08
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