投稿日時:2019/01/09 ― 最終更新:2019/01/22

未だに我々は「漫画」がなんであるかを知らずにいる。そしてこの先も未来永劫分からないままであることは、全く自明なことではないか。

漫画という表現が人間によって征服されたことなど、過去に一度もなかった。手塚以前の漫画を過去の人が高々と掲げて「これこそが、漫画です」と宣言したら、現代人はそのあまりに単純素朴なイラストの集合体に苦笑し「あなたはまだ漫画を知りませんね」と漏らすだろう。手塚以後劇画以前の漫画に対しても、やはり同様にコメントする。そして我々が彼ら貧しき漫画読みに対し、現代の洗練された作品を誇らしげに掲げ「これが漫画というものだよ」と宣言すると、未来からの使者が我々の肩をポンと叩き「あなたはまだ漫画を知りませんね」と言って、100年後の漫画を掲げるのである。それを見た我々の多くは困惑するか、嘲弄するか、さもなくば「こんなものは漫画ではない」と憤慨するに違いない。少なくともまともな漫画とは認識できない可能性がかなり高い。19世紀の人々がルソーやピカソを理解しないように。

我々が目撃している現代漫画は「今の時代に固有の漫画」、もっと言えば「現代的偏見や先入観によって埋め尽くされた漫画」に過ぎない。漫画かくあるべし、という固定観念がその時代の表現手法を束縛している。そしてその拘束は過去に何度も破壊され、漫画の概念は再構築を繰り返した。『ルーザーズ』は、そのような既成概念が崩壊した画期の1つ、1960年代後半の青年漫画の勃興を『週刊漫画アクション』創刊ストーリーに乗せて描き出す(図1)。

図1:吉本浩二『ルーザーズ』2巻, 双葉社, 2018年

本作は、青年漫画成立の歴史的条件を極めて丁寧に描写している。話の大筋は「先見の明を持つ編集者・清水文人がモンキー・パンチとバロン吉元を拾い上げ『週刊漫画アクション』をヒットさせる」といった感じになると思われるが、単に「彗星の如く現れた人気マンガ家が革新的な作品を発表して新時代を作った」というような安直な歴史解釈で済まさない点がいい。作者の吉本浩二は、青年漫画の受け皿としての、戦後ベビーブームで生まれた団塊の世代がまさに「青年期」に突入したという必然的条件を、ことさらに強調する。そのため1巻はあまりにも清水の逡巡と迷いが長く、主役のモンキー・パンチが全然『ルパン三世』を描き始めないのでヤキモキするほどだ(まあルパン登場は3巻以後になるが)。

青年漫画誌受容の歴史的条件

集団で浮かれて騒ぐ、戦争を知らない「青年」たちの大量発生――清水は考える。「もがいて疼いてんだよ。自分は何者だろう?って…」。周りの人間はキョトンとしている。つまり清水はその新時代のただ中で、既に「青年」という「現象」を「発見」しており、それまで主として「子供」向けにしか描かれていなかった漫画という表現に、浮上しつつある新たな領域「青年漫画」の需要が生まれていることを直感している。一方で当の新青年世代であるモンキー・パンチらは、自分たちの世代が求める表現を発見しているが(それはアメコミの影響を強く受けている)、少年漫画と諷刺漫画くらいしか「漫画」の定義が存在しない既存の出版業界に受け入れられない。そのような「負け犬たち=ルーザーズ」たちが徐々に双葉社という、これまた文学青年崩れの編集者たちのいる弱小出版社に集って「史上初の“週刊”青年漫画雑誌」を創刊することになる。つまり本作では、青年漫画成立の条件を、戦後のベビーブームとそれに合った表現手法の同時出現にあると考察しているのである。

清水文人やモンキーパンチによる『漫画アクション』創刊とは、「漫画」という固定観念に対する芸術のクーデターとも言える。2巻で描かれる清水の「常識」への疑念は印象深い(図2,3)。

図2: 吉本浩二『ルーザーズ』2巻, 双葉社, 2018年
図3: 吉本浩二『ルーザーズ』2巻, 双葉社, 2018年

岡本太郎も述べているように、芸術の宿命とは既存の芸術の枠組みを解体し再構築し続けること、すなわち常識の否定・破壊にある。子供向けの漫画が席巻するマンガ業界に、より濃厚なタッチと強い作家性を武器に切り込むモンキー・パンチたち。「これが漫画か?」という問いに「これも漫画だ」と返す、表現の革命宣言。それは劇画とストーリー漫画の闘争が新たなステージへ移行したことをも意味する。

2巻の最後、清水が見込んだ人間を一人ずつ口説き落として「七人の侍」を結集するシーンは熱い。反骨のはみ出し者たちが結託して下剋上を巻き起こす物語に、漫画史考証の面白味が加われば、読ませる作品にならないわけがないだろう。

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