ある年の大学入試で「人間が他人の心が読めたらどうなると思うか、英語で書け」という問題が出題されていた。子供の問いかけのような問題だと思った。それから数年経って『リボーンの棋士』2巻を読んでいたとき、不意にこのことが思い出されたのである。

心の古傷がズキッと痛む。『リボーンの棋士』を読んでいると、時々そんな感じがするのだ。登場人物たちが他人に注ぐ「視線」と「値踏み」の生々しさが半端ではない。仮借なき心理描写によって、人間社会の序列の残酷さが克明に描かれる。友情は、人間関係は所詮、互いに利益を得るための功利的契約に過ぎないのか。2巻は、簡略に述べればそういう話が多かった。

例えば冒頭で安住と土屋が向かう研究会は、将棋のプロとその卵たちが、言うなれば「飯を食うために」切磋琢磨している場だ。そこにプロへの道がほぼ断たれてしまった二人が向かう。表面上は兄弟子と弟弟子の久方ぶりの再会。「久しぶりだなぁ!!」「元気だったか、二人とも!!」しかし彼らの関係を支えているのは、都合の良い練習台・実験台を求めるプロ側と、より強い対局相手を求める安住たちの互恵的な地下取引である。申し出を了承した古賀は、彼らをダシにすることをハッキリと述べる(図1)。落武者となって尊敬を失った者たちは、まず自らを差し出さなければならなかったのだ。

宇野や堺たちに発破をかける古賀
図1: 鍋倉夫『リボーンの棋士』2巻, 小学館, 2018年

「今さら何しに研究会に来たんだろう」「よくやるよ」「今さら強くなったところで…ねえ?」プロ側の人間たちの、軽侮の念すら含んだ冷ややかな視線が、のこのこ顔を出した脱落者たちへ注がれる中、安住が新手を考案して周囲から一目置かれる。「こいつ…なかなか使えるな」。水をあけれられた土屋は焦燥に駆られる。「俺も存在意義を示さねえと」。

存在意義。人と人が繋がるのは、お互いが相手にとっての「存在意義」を有しているからである――当たり前の現実の、しかしなんと荒涼たることか。ふっと悲しいのである。そこでは道徳教育で高らかに掲げられる「友情の無償性」など、空虚な幻想に過ぎない。勝負の世界では、プロの世界では、それが取り分け前景化しやすい。たとえ「友人」であっても、実力に差があれば対等にはなれない。実力が上の者は下の者に対して興味を失う。そもそも安住たちがプロの研究会に来たのも、仲良くなった道場の研究会のメンバーが自分たちよりレベルが低かったからである。その現実を土屋は直截に言葉にする。「物足りない。このレベルじゃ俺達の練習にはならない」。結局、道場の方は一度行き始めたから通っている、というような展開になっている。

私も色々な勝負ごとや競争に手を出してきたが、実力が離れた友人や知り合いとは必然的に疎遠になってしまうのが、なんだか虚しく、時には実力を静止させ、気の合う仲間との勝った負けたを繰り返す、永遠の現在に安住した方が幸福な場合もあるだろうとすら思った。競争を通じて、虚飾のない人間関係の力学を痛感せずにいられなかった。そしてそれは自分ではどうしようもない現実であった。「どうしてもっと強くならないんだ」と強い方が言ってもどうしようもないし、かといって無理に付き合っても互いに白けるばかりである。例えば羽生善治や藤井聡太の人生では、沢山の人達が後方へ遠ざかっていったに違いない。そんな中で同じ速度、同じリズムで並んで走れる好敵手との邂逅は、とても幸福なことであり、奇跡とさえ感じられる。だから安住と土屋が並んでいる姿に、私は何だかホッとするのだ。

実力が人間関係を規定する――それは安住と加治の関係において如実に表れる。奨励会入会時は互いに切磋琢磨する良きライバルだったが、かたや奨励会落ち、かたやタイトル保持者となった今、加治は安住の声かけに応じもしない。「格」が違ってしまっている今、将棋の話すら不可能であるという加治の言葉が、重い(図2)。

竜皇として明星と競う立場の加治
図2:鍋倉夫『リボーンの棋士』2巻, 小学館, 2018年

『リボーンの棋士』で描かれる人間関係の剥き出しの現実は、かくも凛洌である。その現実があまりにも残酷だから、人は友好を装う術を身に着けたのだ。「人間が他人の心を読めたらどうなるか」という冒頭の問いかけに対しては「お互いの吹き荒らす冷徹な吹雪により、全ての人間が凍え死ぬ」という答えを返すより他にない。

2巻では他にもいくつかトピックスがあった。枯れた技術からの新手の創出、安住たちと対極の「元奨」の出現、土屋の内に秘めた想い。土屋はプロを目指すことをハッキリ言葉にした。安住の目指す先にあるものは、まだ言葉にされていない。

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投稿日時: 2019/01/04 ― 最終更新: 2019/01/22
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