投稿日時:2018/12/22 ― 最終更新:2019/04/09

僕は「悪の天才」を描きたかったのです。

能條純一『翔丸』1巻カバーより

天才とは何か。天才とは、説明不可能性である。秀才は解る。秀才は凡人の文脈の先端に位置する。説明可能である。だから秀才に対して、感心はすれど驚嘆はしない。しかし天才は解らない。解らないからこそ「説明不可能な理由により優れた資質を有する者たち」を天才と総称して強引に一括りにしている。要するに得体の知れない存在が天才なのであり、天才という言葉は理解の敗北宣言に等しい。その説明不可能性がきらびやかに見えれば天才と呼び、いびつに見えれば狂人と呼ぶのだ。

本作の主人公・翔丸は徹頭徹尾、説明不可能な存在として描かれ、あたかも悪魔がふらっと地上を散歩するかのように、平然と世界に混沌をもたらす。「悪の天才を描く」という能條純一の一貫したコンセプト。翔丸は全く説明を受け付けない。ずば抜けて優秀な頭脳を持つに「過ぎなかった」翔丸がカッターで自分を傷つけて悪に目覚めた理由、そのカッターで傷つけた相手が絶対的な支配下に収まってしまう理由、人生をゲームと称し気まぐれに日本を掌握しに向かう理由。いずれも明言が慎重に避けられ、しかし独特の迫真性を伴って、読者に「ただのハッタリ」と看過させない凄みがある。それほどまでに翔丸のカリスマ性の描写には隙がなく『Death Note』のような天才支配型ピカレスク漫画の金字塔と呼べるかもしれない。

翔丸の天才としてのヴェールの内側は巧妙に隠蔽されている。まず主人公のリアルタイムでのモノローグは一切なく、語りは「後に翔丸はこう語る」と、あくまで事件当時とは距離を置いた説明としてなされる。周囲の人間の語りも巧妙だ。常に都市伝説を伝承するかのように事実を断片的に語り、聞けば聞くほど翔丸という存在の謎が深まっていく(図1)。

図1: 能條純一『翔丸』1巻 ,講談社,1988年

ここで天才の逆説が浮上する――天才は優秀過ぎるから説明不可能なのではなく、説明不可能だから天才らしく見えるに過ぎないのか。そうだと言っても構わないであろう。ある種の天才は間違いなくハッタリ的な存在であり、そして奇妙な話なのだが、ハッタリ的な存在だからこそ彼らは紛れもなく天才なのである。天才というハッタリが、リアルな天才を現出させる。あたかも通貨という幻想が実際に経済を生み出すかのように。

図2: 能條純一『翔丸』1巻 ,講談社,1988年

考えてみれば主人公の能力もハッタリに過ぎない。カッターで切った相手を支配する、呪術の如き「暗示力」(図2)。主人公の翔丸は超能力者ではない。少なくとも作者はそうは描いていないであろう。そこで使われている力学は心理学であることが示唆されている。翔丸は難解な心理学の著作を易々と読みこなし「人間はあくまで弱い存在です」「どんな強い人間でも必ず弱い部分があるものなのです」と語りながら、時に一般道に戦車を走らせ、時にミサイルを相手宅に届けたりして度肝を抜きつつ、心の隙間をえぐり、ヤクザや政治家たちを陥落させていく。この主人公は、カルト宗教の教祖が用いるような暗示術や驚愕法、NLPといった技術を、漫画的に誇張された威力で使用している。翔丸のカリスマ性の正体は「教祖のオーラ」であろう。

ハッタリに満ちた世界でハッタリを武器にした主人公が権力者たちを平伏させていく痛快なケレン味が、読者になんとも怪しいカタルシスと陶酔をもたらす。まるで自分も翔丸組に入信したかのような心地は快くも恐ろしい。この漫画を読んでいたとき、思わず私も友人に「翔丸組に入るんだ」と言ってしまった。実に、芸術的なハッタリは現実の現象と区別がつかないのであり、本作は「悪の天才」を描くことに成功したと言えるだろう。

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