藤本タツキ『ルックバック』/ 「誤読」こそが正しい読み方である

2021/11/03 ・ 漫画 ・ By 秋山俊

二人の全く異なる性格の少女がマンガを通じて知り合い、共同でマンガを描き始める。漫画家として成功を納めるものの、すれ違いが悲劇に繋がり、しかし二人は「彼岸の境界」を通じて交流を果たす――

ひょうひょうと短編を描き、人気作をあっさり締めくくってしまう藤本タツキは、性質的に大漫画家にはなりにくいだろう。しかし大批評家だ。創作行為は本質的に、その文化ジャンルに対する批評行為でもある。藤本タツキはマンガでマンガを批評するのである。

「コマ」と「背景」

この『ルックバック』にしても、急所においてはセリフの一切を省き、コマの連続性と余白だけで物語ろうとする姿勢を貫いている。人物も含めたすべての要素を一つの「背景」として収斂している。このマンガには、セリフもなく、キャラも背景の一部のように一体化したコマが連続する場面が非常に多い(図1)。

図1:同じ構図で時間だけ経過し、セリフがない見開き(藤本タツキ『ルックバック』2021年, 集英社)

「コマ」が「背景」であるということ。つまり「キャラ」でも「セリフ」でもなく、「コマ」の連続体こそがマンガの本体である。そしてその濃密な「背景」から様々な意味、心情、交わされたかもしれないセリフを読み取り、思いを馳せる不立文字がマンガの醍醐味なのだという批評。

『ルックバック』のセリフのないコマを、あっさりと、そっけなく読むことができるだろうか。「セリフ」が一切ないからこそ、この「背景」の連続が、大量の「コトバ」で埋め尽くされていることは明白である。そして「セリフ」が不在だからこそ、マンガは読み手に、作品世界の無数の解釈を許可することができる。読者は「空白」のマンガを、その隙間を、自由に「補完」する自由が与えられている。これはマンガの結末解釈とも関連する。このことは後半で語る。

マンガは「キャラ」か

『ルックバック』は背景マンガであり、さらに主役の片割れが「背景しか描か」ず(図2)、タイトルの「バック」に「背景」という意味が重ねられている自己言及性がある。この「マンガ自身がマンガを語る」という自己言及は、『ファイアパンチ』が「物語を通じて“物語とはなにか“を語る」マンガであったのと同様。

もっぱら商業的な空間と化しているマンガの世界において、「コマ」の中心体を「キャラ」ではなく「背景」におくことは不経済である。「キャラ」の存在こそがマンガの中核であり、経済システムであるというイデオロギー。それを信じて、ポスト手塚の漫画界は、少年ジャンプを中心とした出版資本とメディアミックスの城を打ち立てた。「キャラ」中心主義は巨大なスピンオフ産業を生み、マンガは「キャラ」への従属をはじめた。主従は逆転された。

「背景」なぞ「キャラ」の隙間を埋めるための、マンガ作りの剰余に過ぎない――しかしそう信じ切ったとき、マンガはなにか決定的な栄養成分を欠き、病むのである。

『刃牙』の板垣恵介は、かつて「漫画家は芸能事務所のオーナーみたいなもの」と言った。

「キャラ」こそが命。「キャラ」こそがマンガ――マンガは架空の芸能産業と化す。

「背景」は経済ではない。しかし「背景」を描くのはマンガの衛生学である。おそらくそれは、マンガが自らを「私は表現である」と主張するための十分条件だ。藤本タツキは衛生的な存在だ。しかし自らを表現者だ芸術家だなどと自称することは避けるだろう。気取った態度はおくびにも出さない照れ屋の藤本タツキだ。

パラレルワールドの解釈

ストーリー面において、このマンガの最も魅力的であり、また議論を呼ぶ点は、後半のパラレルワールド(あるいは空想)に対する解釈である。

漫画家を目指す二人の少女は互いに惹かれ合い、運命を共同にする。しかしどうしようもない悲劇によって引き裂かれてしまう。二人が会わなければこんな悲劇が起きなかったと後悔する。

しかし悲劇の後の晩に、どういうわけか、一瞬だけ閉じたドアの隙間が「彼岸の世界」に通じてしまう(図3)。引き裂かれたはずの二人は、ドアの隙間という「彼岸の境界」を超えて交流する。その「彼岸の世界」――パラレルワールドにおいては、交流の結果として悲劇が回避される。しかしそれは主人公の夢とも空想ともつかない世界であり、ドアを開けると、悲劇が悲劇のまま横たわった「此岸の世界」があるだけだった。

図3:ドアの隙間を通じてつながる世界(『ルックバック』)

素朴な多世界解釈として、宇宙は、その宇宙で起こる全ての可能性を内包しているとする。そして宇宙の確率的な「ゆらぎ」に対応して、それぞれの「ゆらぎ」に応じた多世界へと無数に分岐していき、それらはすべて異なる時空に併存しているとする。

その場合、多世界はまさに無数に、たとえば私が文字をタイプする際に、キーを0.1mm深く押すかどうか、まで含めた無限の、あらゆる世界へと広がり続けているはずである。その可能世界の網羅性は、同時に、人間のあらゆる空想に、たまたま合致した世界もどこかに存在することを示唆するだろう。

であるならば、ドアの隙間を抜けた向こう側で、たまたま別世界で起きた出来事が連動して発生している宇宙も、必ずどこかに存在するのだろうか。儚くなった人に、ドアのこちら側から呼びかけて、その声が「ゆらぎ」の合致によって、別世界でもなにかのきっかけで――それが空耳だとしても――同じ言葉が生じていて、生きているその人が聞いている宇宙も存在するのだろうか。そのときに二人は通じているのだろうか。

マンガは「誤読」により作り手を超越する

「誤読」により成立する主人公たちのコミュニケーション(図4)は、そのまま、作品を思い思いに「誤読(=解釈)」することによってのみ関係を取り持つことができる、作品と読者の関係に相似する。コミュニケーションとはなにか。読解とはなにか。それは「誤読」することと言い換えても全く差し支えない。

図4:マンガを「誤読」する少女(『ルックバック』)

あらゆる「解釈」は「誤読」でしかない。同時に、あるものが本質的に備えている「始原の意味」というものも存在しない。そんなものが仮にあっても、正確に読み取れるわけがない。したがって「誤読」し合うことこそがコミュニケーションの本質であると言える。

なぜ「誤読」が正しいコミュニケーションかというと、あるメッセージが持つ意味は、常に受け手にとってしか重要でないからだ。これをテクスト論と呼ぶ。人間の会話にしても、常にお互いに都合よく「誤読」し合っているし、それでなんの問題もない。「誤読」とは、決して「間違っている」という意味ではない。「誤読」とは、そのメッセージが表現し得る意味の「ゆらぎ」の1つを読み取ったという意味である。

背景とセリフの不在によって埋め尽くされた『ルックバック』(図5)は、「正しい解釈」を最初から否定するマンガである。逆にセリフによって「猫だ」と宣言することは、「猫以外認めない(杓子ではない)」という、解釈の制約ともなる。セリフによって解釈を制限するのは、貧困に陥った表現形態である。それは分かりやすく通俗的ということである。

図5:セリフの不在(『ルックバック』)

しかしセリフの不在によって、読者は自由に『ルックバック』を「誤読」することができる。そして作品は読者の豊かな「誤読」を通して、作者を超えていくのであり、想像以上のものになっていくのである。聖書や昔話が現代まで生き残っているのは、読者のイマジネーションに富んだ「誤読」によってテクストの意味が深められたからに他ならない。本作の後半についても、好きなように「誤読」すればいいのだ。

ゴダールは「良い映画がヒットする唯一の条件は誤解されることだ」と言った。吉本隆明は「傑作とは、読者が“これは自分のために書かれた作品だ”と思ってしまうもののことです」と述べた。なぜなら「誤読」こそが、受け手にとって最も心地よい解釈になるからだ。つまり究極の作品とは、練りに練られた筋のものではなく、むしろ多分に曖昧で不確定の部分を残し、「誰もが自分にとって心地よい解釈をできる作品」ということになる。

「コマ」を「背景」で埋め尽くし、決定的な部分でのセリフを省いた『ルックバック』は、あらゆる意味を展開せずに内包し、「ゆらぎ」の可能性を温存している。その「ゆらぎ」の多世界は、読者の「誤読」すなわち解釈によって収束し、読者の最も望んだ意味を表す。

いまのところ、藤本タツキの最高傑作であると思う。

満足度:10/10

(ヘッダー画像:藤本タツキ『ルックバック』単行本表紙)

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初版:2021/11/03 ―― 改訂: 2021/11/21

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