投稿日時:2018/12/21 ― 最終更新:2019/03/24

人と人が友好的なもの、幸福な関係を追い求めた結果として破滅的なすれ違いに終わるこの世の不条理が、未だに承服しきれずにいる。私と誰かが互いに歩み寄ったとして、その友好への努力は、しばしば両者にとってコントロール不可能に近い誤解やボタンのかけ間違い、あるいは共通のリソースの不可避的な争奪戦(例えば仕事のポストや共通の想い人)により、脆くも崩れ去ってしまう。人間の世界には、場にいる者たちが互いに幸福に向けて努力し、誠実に行動すれば、物事が好ましく成就されるはずである、という神話がある。これは人の世の条理である。そしてそのような道理を歩んだ結果として、どういうわけか馬鹿げた破滅に帰着してしまう、救いようのない現実の理を、我々は不条理と呼ぶのである。

『ミスミソウ』において主人公の野咲とそのクラスメートが巻き込まれる運命は、まさしくこの不条理に他ならない。野咲は廃校が決まっている中学に卒業直前に転向してきて、壮絶なイジメに遭う。その結果はクラスメート同士の殺し合いと復讐劇に発展するのだが、イジメの端緒となる野咲の転校、すなわち「卒業へ向けてまとまっていたグループへの異分子の混入」という事件は、張本人の野咲には全くコントロールできない。ましてそこに悪意などあるはずもない。これは単に親の仕事の都合である。しかし視点を変えて見れば、作中において悲劇のヒロインとして描かれる野咲こそが全ての元凶である、というクラスメートの主張は、あながち責任転嫁とも言い切れないのである。彼女の転校がなければ、彼らはいくらかの不和を抱きながらも卒業の日を迎えただろう。また物語終盤においても、野咲へ悪意が向かうキッカケとなったのも、これまた本人にはどうしようもない認識のズレ、行き違い、あるいは見る目のなさであったことが暴露される(図1)。

図1:押切蓮介『ミスミソウ 完全版・下』双葉社, 2013年

『ミスミソウ』は最初に「単純な」イジメ劇としてスタートしながら、物語の進行と共に少年少女たちがどうしようもない人間関係の錯綜の中で雁字搦めになっていた様子が描かれる。そこで描かれるのは徹底した不条理の描写である。「美しい愛の物語を追っていたらサイコパスの妄想だった」とか「自分を犠牲にして尽くしていたつもりが八つ当たりされてただけだった」とか、混乱の極み過ぎて、どうすれば彼女らが救われたのか、そもそも誰が「悪かった」のか、全く判然としない。もはや事態を収拾することは困難で、作者がそうしたように、全ての人物の屍の上に雪を被せて立ち去るしか混乱をリセットする術がなかったように思える。読者はこの圧倒的な不条理の描写の前に、無力に巻を置くことになる。

「私がこんなに手を差し伸べているのに、それに応じないあなたが憎い」という不条理。「あなたがいくら苦しくても、私は痛みを感じない」という不条理。本作では人間の幸福願望と自己中心性との対立、自己を決して完全には理解し得ないこの世界が放射する絶望的な他者性が、克明に描かれる。人間の認識能力や共感能力の限界から、これら不条理の撲滅が不可能であるなら、人は救いのない現実に嘔吐しながら生き続けるしかないというのか。少年少女のバトルロイヤルという展開は些かフィクショナルだとしても、そこに至るまでに描かれる過程は生々しい。表面上ではひたすら愛の憧憬にヒロイックに陶酔しながらも、その憧憬と裏腹の、糞のごとき現実を埋め立て肥溜めを肥やし続ける相場のような人物像は、奇妙なほどリアリティがある。こういう人物は現実世界にも大勢いるであろう。

この作品は心霊的・超常的な描写が一切ないにも関わらず、作者はホラーに分類している。私もホラーのような読後感を抱いた。この感覚は一体どこから来ているのだろう。例えば最初の殺し合いで、釘で刺されて「ちょっとばかり」目玉が飛び出てしまった少女が「これっ…触らない方がいいかな…!?」と聞いてくる描写は残虐というよりホラー的である(図2)。

図2:押切蓮介『ミスミソウ 完全版・上』双葉社, 2013年

イジメる側にとっては、これまであくまで「行為」として抽象的にしか感得し得なかったイジメという概念が、人間の肉体を剥がしてギョロリと現実世界に飛び出てしまったような恐ろしさがある。飛び出た目玉が、積み上げてきた怨念や懺悔の具象というわけだ。『ミスミソウ』の醸し出す恐ろしさは、人間が「行えてしまう」行為の残虐さの際限の無さにある。「中学生のイジメ」というのはそのモチーフの1つに過ぎず、この作品が中心に置いているのはもっと普遍的な人間の本性ではないか。

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