投稿日時:2018/11/07 ― 最終更新:2019/04/26

コージィ城倉『チェイサー』

漫画黎明期に、筋金入りの手塚オタクがいたとする。その男は、生きる姿勢がそのまま手塚の模倣である。先生の著作を大叢書のごとく棚一面に飾り立て、口を開けば手塚批評を並べ立て、そんな有様だから無論、自らもマンガ家を生業とするに至る。彼が筆を動かすとき、もうすっかり天才になりきっているのだ。ところが自意識が人皮をかぶったかのような男だから、口では決してファンを公言しない。それどころか、手塚なんて大したことねぇと、傑作の粗をまくし立てる。それがこの物語の中心人物、海徳光市(かいとくこういち)である。『チェイサー』は、宿痾の手塚オタクであるこの男が、ひたすら自らの劣等を見せつけられながら七転八倒するマンガ家漫画である。

いま「中心人物」と呼んだが、それが適切かどうか定かでない。主人公には違いないが、中心人物はどうも手塚治虫のような気がするのだ。

図1:コージィ城倉『チェイサー』1巻, 小学館, 2013年

それはこういうことである。物語は3人の編集者に囲まれて締切と戦う「人気マンガ家」海徳が、手塚の天才性を示すエピソードを小耳に挟んではそれを真似し、模倣に失敗しては彼我の差に転げ回るコメディとしてスタートする(図1)。そもそも複数の編集を侍らせること自体、手塚スタイルの模倣であるし、手塚が編集に拉致されてカンヅメを強制されていると聞けば、自らもカンヅメ状態を嬉々として作り出し、ご丁寧に監禁場所からの逃走まで自作自演してみせる。このときは海徳8、手塚2くらいの割合で語られている。これなら海徳が中心に座っていると言って差し支えないだろう。

ところが2巻の終わりに差し掛かると、いつの間にか話題は一に手塚、二に手塚である。4巻の最初の話なんて手塚の批評しかしていない。時には主人公がマンガを描くことなどそっちのけで、テーブルを囲って議論に没頭する。もはや手塚公会議、あるいは手塚と漫画界のプロレス実況といった有様である(図2)。

図2:『チェイサー』4巻, 小学館, 2016年

全体の分量としては海徳4、手塚3、業界トーク3くらいの配分なのだが、手塚は常に話題の中心にいて、海徳の行動や議論は「手塚のアクションに対してどう出るか」という対応の結果に過ぎない。手塚はマンガ界の中心で自ら光り輝く恒星であり、海徳はその光を受けながら周囲を回る衛星というわけだ。

むしろこの漫画は、最初から海徳という架空のマンガ家(モデルはいるだろうが)を鏡に据え置き、その反射を通して手塚治虫という天才の歴史性、超人性、自照性を克明に描くことが最大の目的であるというフシすらある。つまり海徳という人物は、第三者視点のもっともらしさを演出するための狂言回しであり、主役を装う提灯持ちではないかという疑惑がある。

このような解釈が、本作への否定的な批評では全く無いこともお断りしておこう。それどころかこの作品、べらぼうに面白い。私は2巻3巻と買い足しては読み尽くし、あっという間に全巻読破してしまったほどである。

海徳が手塚のポーズを取っては勝手に自滅する形式美コメディも、それ自体が十分面白いのだが、中核的要素ではない。この決して二流ではない、それどころか人気作家とすら呼べる海徳をフィルターとして通して見たとき、手塚の超人性が同時代的な実感を伴って伝わってくる、このタイムスリップして偉業を目撃するかのような臨場感がすごいのだ。

アニメ制作を通して見る手塚の偉業

海徳は間違いなく人気マンガ家である。話が進むほど成功を手にする。同時連載を4本、5本と次々に増やし、家まで建ててしまう。読者は海徳の中に、戦後におけるマンガ家の典型的な成功例を見る。ところが彼が成し遂げた全てのことを、手塚は片手間にこなしていることを知り、海徳は愕然とする。「手塚は大量の連載を抱えながら、アニメスタジオにも通っている!」この衝撃を受けて、生粋の手塚イミテーターがアニメ作りを始めないわけがない。ところがこの中年マンガ家は、3日も保たず挫折する。スタジオの人間がその理由をズバリ指摘する。

アンタは「一国一城の主」、けっして「一兵卒」にはなれやしない。

褒められてるんだか貶されてるんだか、クリエイターの本質を突いた言葉である。この言葉に海徳は大いに頭を抱える。

しょ、正直……こればかりはマネできん!
こんなことに本当に手塚は挑戦しようとしとるのか?

自信喪失の坂を転げ落ちていく海徳。アニメスタジオの社員はここぞとばかりに自論を展開し、芸術家肌の手塚がスタジオと衝突して浮いている現実を冷笑し、漫画畑と動画畑は根本的に相容れないのだと、排他的な空気を漂わせながら演説する。そしてトドメに「手塚治虫に自分の“マンガ映画”が作れるとは思えない」と予言して見せ、海徳は自らの敗北を認める。手塚に無理なら己にも無理なのだ……

っと、ここまで散々引っ張っておきながら、最後のコマであっさりと、「手塚のアニメ業界進出成功」の報が伝えられ、このアニメ話の回は唐突に幕を閉じてしまう。これが本作一流の、手塚礼賛のレトリックなのである。徹底的な取材から50-60年代の空気を再現してみせ、当時はいかに手塚の試みが非常識かつ無謀であったかを、成功したマンガ家の視点を通して語る。そしてとことんまでその不可能性を強調しておきながら、最後の最後で「こうして海徳は敗北した。一方、手塚はそれを片手間で成し遂げた」とオチをつけてみせる(図3)。太陽と月のように、海徳という男は、手塚がいかに眩しくオンリーワンの存在であるかを伝えるために存在する。

アニメ『西遊記』を作った手塚

図3:『チェイサー』1巻, 小学館, 2013年

手塚治虫の成功分析

それにしても、本作のアニメ絡みの手塚考察は実に面白い。これだけで一冊の本が書ける、という勢いで、手塚の特殊性や成功要因が分析され、批評されていく。

例えば2巻の最後で『鉄腕アトム』が国民的人気となり、それについて先ほどのアニメスタジオの社員と海徳が延々と議論を繰り広げる場面がある。社員の男は「あんなものアニメと認めない」と手塚アニメを批判する。曰く、枚数の不足を絵の回転などで誤魔化しているから、実際には全然動いていない「電気紙芝居」だというのだ。手塚アニメは低予算の貧弱な制作物を水増ししているだけだと痛烈に非難する。ところが皮肉にも、この言葉はそのまま手塚の偉大さの本質を示している。すなわち、手塚は制約の中で最大のコンテンツを作る「誤魔化し」を考えたからこそ、偉大なものを作ったのだ、というわけである。話している途中で、いつの間にか手塚批判から成功分析に変わってしまっているのが「お約束」と言えよう(図4)。

図4:『チェイサー』2巻, 小学館, 2014年

ここではコンテンツ制作と予算の問題がクローズアップされている。アニメはまともに作ろうとすれば天文学的な予算と労働力を必要とする金食い虫であり、アニメは、いやあらゆるコンテンツの制作は、常に予算と時間との戦いである。無限のリソースを設定することほど空疎な妄想はない。であるならば、少ない手間でより多くのものを盛り込む手際こそが、名匠の技巧ではないか。「人と人は速度で差をつけるしかない」とウメハラは言った。「遅いことなら誰でもできる。20年かければ馬鹿でも傑作小説が書ける」これはクゥーガーによる大艦巨砲主義への痛烈な批判に他ならない。ことほど左様に、物作りとはリソースとの闘争へと収束する。

手塚の成功分析は、回を跨いでさらに続行される。『鉄腕アトム』の制作体制はそれにしたって、馬鹿げている。人的資本があまりに少ない。予算は途方もなくか細い。その不可思議の事由を、例の社員は「手塚治虫の吸引力」に求める。「手塚治虫と一緒に仕事をし、世界初の画期を現出させる」このドグマが、手塚スタジオの平社員を、疲れを知らぬ狂戦士へと変貌させ、徹夜の疲れに伏した社員をゾンビの如く使役するアニメイト・デッドの秘術だというのだ。手塚というカリスマが、他に類を見ない低予算体制でのアニメ制作を実現させている。「手塚がアニメの過酷な制作現場の原型を生み出した」と非難される所以である。

このような手塚の恐るべき商才は『チェイサー』の中で「手塚一流のビジネスモデル」「手塚は企業家」「新進気鋭のベンチャー」と様々に表現され、彼の歴史性の検証、20世紀サブカルチャーに対し果たした役割の再評価が試みられる。このマンガに通底するのは「手塚治虫とその時代への批評」なのである。

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