投稿日時:2018/10/31 ― 最終更新:2019/01/22

平松伸二『そしてボクは外道マンになる』

(本記事には多少ネタバレあり)

まさか『外道マン』が4巻で打ち切られてしまうとは……「第一部完」の墓碑があまりに悲しい。

70-80年代に『ドーベルマン刑事』『ブラック・エンジェルズ』で一世を風靡した平松による自伝漫画というスタイルが、マンガ家漫画好きの私にヒットしないはずがない。昔の少年ジャンプ界隈の楽屋裏話は、漫画好きにはまず滑らない鉄板ネタだろう。ただ1巻はまだオーソドックで、悪く言えば作風が古いという印象を受けた(図1)。ところが2巻から異変が起き、3-4巻と面白さが上昇して「これはかなり意欲的な試みがなされているのではないか」と思っていた矢先に、無念の打ち切りとなってしまった。

図1:平松伸二『そしてボクは外道マンになる』1巻, 集英社, 2017年

私がこのマンガ家漫画で新しいと感じた点、それは「作品と作者、そして現実世界の3つがリアルタイムで交錯する」点なのである。これは高度なメタフィクションであると言っていい。

漫画と現実世界が入り乱れる

例えば2巻の中盤で時間軸が現代に戻り、60過ぎの平松が『外道マン』現担当の仕事面での不備(ネームの打ち忘れ)や平松に対する不敬について、長々と活字で恨み節を炸裂させるシーンがある。しかも5ページにわたり、作品の流れを完全にストップさせて長文をズラズラ並べているのだ(図2)。

図2:平松伸二『そしてボクは外道マンになる』2巻, 集英社, 2017年

最初、平松が暴走して作品に私怨を盛り込んだだけなのかと思ったし、あるいは当時は本当にそうだったのかもしれない(実際この編集は作者の直談判により担当を外された)。しかしここから「作中で“リアルタイムの現実”を描く」というスタイルが激しさを増していく。

2巻終盤ではかつての編集のマシリト(作中では魔死利戸)に、実際にこの『外道マン』の原稿を見せて出演許可をもらうシーンが描かれるが、そこでなんとマシリトは『外道マン』を駄作と切り捨て、実に冷徹な態度で打ち切りを予言してしまう(図3)。

図3:平松伸二『そしてボクは外道マンになる』2巻, 集英社, 2017年

「外道マン…」のタイトル通り
平松さんがもっと外道にならなきゃ…
この漫画は売れない
ただのゴミで終わるよ!

皮肉なことだが、このシーンは本作の中で、今となっては最も印象深いシーンとなった。1つには「自虐」ではなく「批評」として、作品の中で作品が駄作であると冷徹に宣告されてしまう、ショッキングな現実描写によって。いま1つには、マシリトの予言が現実に的中したという、恐ろしい真実性によって、である。

この予言は実に不気味な言霊として作品全体に影を落としている。マシリトは鳥山明の才能を発掘、開花させ『ドラゴンボール』でジャンプの黄金期を現出させた伝説の編集であり、そのマシリトの手腕は作中で明確に評価されている。上記のシーンが描かれる直前のコマでは、マシリトのアドバイスで『ドーベルマン刑事』の人気が回復したエピソードを挙げ「編集者としての能力も見直さざるを得なかった!」と書かれている。ここまでお膳立てした上で、平松は上記の「死の予言」エピソードを披露しているのである。つまり一連のマシリトのエピソードは、最高の批評家による『外道マン』内部に埋まる爆弾の暴露であると同時に、作品生命を賭けたサスペンスの演出でもある。マシリトの予言の行方を占う3,4巻の緊張感はそのためだ。

作品そのものを滅ぼしかねない呪詛のようなこの言葉は、しかし同時に『外道マン』というタイトルが持つ意味の開示であると同時に、作品の「変身」の予感でもあった。作中の平松は言う。

さすが魔死利戸!……わかってやがる!
伸二がいいヤツの今は、まだまだこの漫画の入口なんだよ!

そしてこの次の話から、作中の平松の心理のどす黒い部分が強調されるようになり(図4)、真っ白だったコミックカバーは灰色に、そして4巻で真っ黒になる。それと同時に『ブラック・エンジェルズ』で強烈なダークヒーローも生み出し、周囲の評価通り、その満たされない自尊心を執筆に注ぎ込む。つまり『そしてボクは外道マンになる』というタイトルは、主人公の堕天による作家としての覚醒を暗示していたのだ。

図4:平松伸二『そしてボクは外道マンになる』4巻, 集英社, 2018年

このように本作では、漫画が現実に言及し、また漫画内で描かれる現実が作品そのものに直接影響していくという、他のマンガ家漫画には見られない複雑なスタイルでストーリーを紡いでいく。これは例えば書き下ろしの小説なんかでは再現困難な手法で、連載作品ならではと言える。「自伝漫画としては画期的な内容だと思ったんだけど」という作者の言葉は、決して負け惜しみではない。しかし4巻の最後、まさにマシリトが指摘した理由によって作品が終わりを迎え、図らずも『外道マン』の亡骸がマシリトの確かな批評眼を証明する形になってしまったのは、さぞ無念であっただろう(あくまで作中に描かれているだけなので、各エピソードがどこまで本当に現実なのかも不明ではあるが)。

セックスを描かずに描く

もう1つ面白い試みを紹介しておこう。4巻で描かれる、仕事場で平松夫婦がセックスシーンの「描写」が興味深いのだ(なお、奥さんに関してはほぼフィクションらしい)。

セックスを始める直前で時間軸が移り、担当編集との『外道マン』打ち合わせシーンに移行するのだが、ここで「作中の担当が読んでいる原稿」には確かにセックスシーンが描かれている(図5)。

図5:平松伸二『そしてボクは外道マンになる』4巻, 集英社, 2018年

ところがシーンが再び過去の時間軸に戻ると、既にセックスは終わっているのだ。要するに、このセックスシーンは「作品の中の作品にしか存在しない」のである。しかしメタフィクションの次元を通過することによって、同時にこのシーンは「確かに描かれている」とも言える。これは高度なメタフィクションによってしばしば行われる「描かずに描く」という奇術である。

このように『外道マン』は当初の予想を超え、様々な実験的手法を盛り込んだマンガ家漫画となった。たしかに本作は、決してスマートではないし、現代風の洗練された画風とは言い難かったかもしれない。しかしそんなことはどうでもいい。私はもっと『外道マン』の続きを読みたかった。「立て!立ち上がれ!外道漫画家よォオオ~~!」という最後のセリフは、愛読者たちの心の叫びでもあるのだ。

LINEで送る
Pocket

同じテーマの記事を探す