投稿日時:2018/10/30 ― 最終更新:2019/03/23

荻原天晴『1日外出録ハンチョウ』

スマッシュヒットした『中間管理録トネガワ』の安直な水増しかというと、全く違う。笑えるし、ふざけた調子とは裏腹に、意外と深いテーマを含んでいる。人によっては、むしろこっちの方が面白いと言うだろう。カイジキャラによるギャグ漫画という路線は同じなのだが、『トネガワ』が中間管理職の悲哀を描く「仕事」の話だったのに対し、こちらは強制労働施設から1日だけ解放された大槻と仲間たちの、グルメを中心とした「遊び」の話である。

主人公は地下の強制労働施設に閉じ込められながらも、囚人同士のチンチロで荒稼ぎをする「大槻(班長)」で、毎話「1日外出券」を使って地上に解放され、美味い飯を食いに行く1話完結型のあるある系グルメギャグ漫画になっている(図1)。

図1:福本伸行 (著), 萩原天晴 (著), 上原求 (著), 新井和也 (著)『1日外出録ハンチョウ』4巻,講談社, 2018

本作は「平日と休日」「牢獄とシャバ」といった二項対立を使って「遊びとは何か」「自由とは何か」といった考察も含んでいるのだが、それはあくまで伏流する思想として存在するだけで、表面的には気取らない「あるあるグルメギャグ」として完成している点、これがすごい。バランス感覚が絶妙である。

反転の牢獄

この漫画の一番愉快なところが、主人公の大槻が底抜けに人生を愉しんでいる点である。地下の強制労働施設に閉じ込められながらも、人生の辛苦を全く感じさせない。閉鎖空間にあってはギャンブルで周囲から金を巻き上げて、それを使って商売をする。大槻の頭には常に愉快な企みが詰まっており、外出すれば少年のように1日を目一杯愉しむ。

すると不思議なことに、大槻の行動を監視している「看守」たる黒服の男たちの方が、「囚人」のポジションにある大槻より、ずっと不自由に見えるのだ。ここには牢獄のもつ面白いアイロニーが表れている。牢獄とは反転して見ると、囚人を外の世界から守っている防御壁となり、逆に牢獄以外の全ての世界が柵に覆われているのだ……と考えることもできる。看守はあくまで監視役であり、囚人たちの主人ではない。看守は囚人を死なせるわけにはいかないし、一方的に暴力を振るうわけにもいかない。逆さまの世界では、看守は囚人たちの保護者・ボディーガードとなる。

この見かけ上の主従関係の逆転は、特に1巻で集中的に描かれる。勤務中の黒服を尻目に、物産展で実に美味そうに買い食いをする大槻からは、24時間後には強制労働に戻される悲壮感など全く見られない。そして黒服を買い食いへ誘惑する余裕すら見せるが、黒服は「仕事中だから」とハメを外せず、大槻をそれを尻目に「あー美味しかった!」とご満悦(図2)。

図2:『1日外出録ハンチョウ』1巻,講談社, 2017

ここでは支配者たちの精神的な不自由さ、つまり黒服こそ真の虜囚であることが、痛快に暴かれているのだ!世の中で最も不自由なはずの囚人が最大の自由を謳歌する、倒錯のユーモア。黒服はもはや監視者の立場を剥奪され、大槻が精神的自由人であることを演出するための引き立て役へと矮小化されている。

第2話のラスト、朝まで飲んで大眠りする大槻を、青ざめながら車で送る黒服と共に流れる言葉「次回はぶらり……!錦糸町……!」で爆笑。逸楽から労働へ回帰する虚しさとか、高圧的な黒服の態度とか、そういったあらゆるネガティブな圧力を、どこ吹く風で自らに寄せ付けない図太さ。監視役をタクシー扱いする不敵さ。これをユーモアと呼ぶのである。

「遊び」とはなにか

作中で大槻が、ことさらに「心の余裕」を強調することは、注目に値する。この漫画の根幹をなす哲学だと言っていい。

「1日外出券」による外出時間は厳密に計測されており、アラームが鳴ってから24時間後に地下へ強制送還される仕組みになっている。なのでここでは、限られた時間でいかに遊ぶか、という問題が生じる。そして黒服によれば、解放された囚人は普通、慌ただしく外の世界の娯楽へ突き進むという。

ところが解放された大槻は違う。アラームが鳴っても全く慌てず、呑気にニットの毛玉を取ったり、二度寝したりする様子に黒服側が逆に戸惑ってしまう(図3)。

図3:『1日外出録ハンチョウ』1巻,講談社, 2017

この大槻の姿勢は、選択の自由の尊重であり、精神的な自由人とは何であるかを物語っている。彼の考えは次の言葉に集約されている。

1日外出を満喫するにはまず……
焦らぬこと………!
心の余裕を取り戻すことが肝要……!

ここで焦って夜の街へ駆け出すようでは、それは本質的には、職務に追われて大槻に翻弄される黒服たちと全く変わらなくなってしまう。時間という魔物に急き立てられる心の囚人に堕してしまう。

大槻は遊びのツアー化や、To Doリスト的な処理行為に置き換えてしまうことを慎重に避ける。ここには「真の遊びとはなにか」という問いかけがある。『ホモ・ルーデンス』の著者であり、人間を「遊ぶ人」と定義したホイジンガによれば、「遊び」には何もよりもまず、この精神的な自由さが要請されるという。

すべての遊びは、まず第一に、何にもまして一つの自由な行動である。

命令されてする遊び、そんなものはもう遊びではない。

(以上2つはホイジンガ『ホモ・ルーデンス』高橋英夫訳, 中央公論社, 1973年からの引用)

「~せねばならぬ」という義務や焦燥を帯びた瞬間、それは「遊び」ではなくなる。子供の頃に楽しんでいた遊びが、なにか打算的な理由で行われるようになったり、遊び自体を強制されることで、途端につまらなくなってしまった経験はないだろうか。それはこの、「遊び」は常に自由の空気を吸い続けねば死んでしまう儚い概念である、という考えで説明できる。このことを本能的に知っている大槻は「遊び」の達人であり、あくまでその即興性や偶発性、無義務性の中に喜びを見出そうとする。

外出の興奮から、とにかく高いものを食べようと焦る沼川をたしなめるシーンでも、大槻の鋭い人生哲学が光る(図4)。

図4:『1日外出録ハンチョウ』1巻,講談社, 2017

リゾート幻想に踊らされた現代人の「贅沢が目的化」することの倒錯。ある社会学者はこれを「ライフスタイルの落とし穴」と呼んだ。ここでは自分本来の欲求が無視されているのだ。一方で大槻は、冷静に自分の欲求を探り出し、それを充足することに集中する。これこそが「遊び」の極意である。

大槻は徹底的に精神を自由にして「遊ぶ」。その様は、なんだか「旅」に似ている。作中の行動範囲は都内が中心で、彼には見慣れた風景かもしれない。しかし高められた「遊び」は、日常を非日常に変え、生まれ故郷の上に旅の空を描く力を持っている。今の時代、金さえ払えば国内など数時間で移動できるだろう。しかし毎日新幹線で通勤している人が、毎日旅をしているわけではない。移動した距離の長さが、それを旅かどうか規定するのではないからだろう。自由な精神の高揚こそが、旅の風景を心に映し出すのではないか。

LINEで送る
Pocket

同じテーマの記事を探す