『かぐや様は告らせたい』は今や多くの人が知っているマンガタイトルだと思うが、小田島三郎に関しては多くの人が「誰?」となるであろう。彼は別名を「渋谷のサンちゃん」と言い、いわゆる「ラーメン回」に出てきたラーメン四天王の一人である。

この回は普段のラブコメが一旦休止となり、ひたすら『孤独のグルメ』のような、オッサンの食に関するオタク的な執着が描かれる回であり(図1)、一体この男のどこに学ぶべきものがあるのか、と思うかもしれない。

図1:赤坂アカ『かぐや様は告らせたい』5巻, 集英社, 2017年

小田島の“歩み寄り”のラーメン哲学

ここで彼のラーメン哲学を知るために、単行本の余白ページに書き下ろされた小田島のプロフィールを確認しよう(図2)。

図2:『かぐや様は告らせたい』5巻

ラーメンは店主と客のワルツであるという信条を掲げ、『不味い』という感想は怠慢であり、『旨く』喰えない客側の責任でもあるという新概念をラーメンファイター界に広く浸透させた。

これを読んで私は「ラーメンと勉強も、それを愛するという点では同じだ」と思ってしまったのである。

どういうことか。

小田島三郎は、ラーメンを誰よりも純粋に愛しているのである。

愛しているからこそ、ラーメンをいかに味わうかということに関して妥協を許さず、ラーメンを旨く味わうためならあらゆる努力を払う。

ここで図1のシーンに戻っていただきたい。小田島がいかにラーメンを旨く味わうため「ラーメンを美味しく感じるための努力」を怠っていないのかが分かるだろう。これが、ラーメンを真に愛する者のとる態度である。

人は飽食になると傲慢になる

ところが我々は一般的に、物事に深くハマり出すと、これとは逆の態度をとってしまう。つまり「旨いラーメンが向こうからやってきて当然」と思ってしまうのである。そして「ラーメン通」を気取っては「ここのラーメンは大したことない」「こんなのは不味い分類」と、勝手にハードルを上げて門前払いしてしまうのである。

……私にも似たようなことがあった。こんなサイトを運営しているので、多分、一般の日本人よりかはマンガや映画に親しんでいると思うが、いつしか「最近面白い作品が少ない」と考えるようになってしまったのだ。ところが私が出会ったある人(かなりのマンガオタク)は「いや、世の中の商業作品は、じっくり味わえば大抵面白い」と言って憚らず、私は自分の傲慢を密かに恥じ入ったのである。

本当に心の底から対象を楽しみたいと思っているのなら「自分の側でもっと楽しむ工夫ができるのではないか」と考えることこそ、本当に謙虚で真摯な姿勢なのではないだろうか(図3)。「『不味い』という感想は怠慢であり、『旨く』喰えない客側の責任でもある」というのは、そういうことなのである。

図3:『かぐや様は告らせたい』5巻

勉強も「積極的に楽しみ、活用する」態度が大切

これと同じことが「勉強がつまらない」とか「勉強に意義を見出せない」といった不満にも言えるだろう。

我々は英語や社会のような科目が、世の中に出てからも役立つことを本当は知っているし、楽しんで学んだほうが勉強自体も捗ることを理解している。また例えばTV番組やSNSで雑学に触れると面白いように、学ぶことは本来人間にとって快楽であることも知っている。

ところが定期試験とか受験とかに押されて勉強しているうちに、我々はいつの間にか、対象を味わい楽しむことを放棄するようになる。そうして浅はかな理解で当座をしのぎ「勉強が何の役に立つんだ」とか「勉強なんてつまらないに決まってる」と言い出す。公式や解法を頭に詰め込んで、最大効率で目前の点数だけ取ろうと考える。

しかし公式や解法を詰め込んで数学の問題を解くなんていうのは、ラーメンで言えばロクに噛みもせずに、麺も具も一気食いするようなもので、そんなことでは数学の真の面白さや、その後の人生にも役立てられるような論理的思考など、育まれるべくもないのだ。

本来であれば勉強というのは、図1に示した小田島のラーメンの食い方のように、じっくり味わうように行われるべきなのである。ラーメンの香りを楽しんでから麺を味わうというのは、世界史で言えば、歴史的事件の背景に思いを馳せ、そこから得られる教訓などを考えながら、テキストを味わうように読んでいくようなものだ。

ところが人間というのは、様々なコンテンツが世の中に溢れていることにいい気になって、いつの間にか「それが面白いなら、こちらが何もしなくても最初から面白く感じられて当然」と、対象を楽しむ努力を放棄するようになった。だから読書とか、文学とか、アートとか、そういう「自分で楽しみ方を見出すもの」の地位というのは相対的に低下している。

勉強に対して斜に構えている受験生だって、本当は勉強が楽しければいいのにと思っている。だったら「どうしたら楽しめるか」「こんな面白さがあるんじゃないのか」と、学ぶ側から歩み寄るのが本来の在り方なのだ。そう、ラーメンを徹底的に味わい尽くす小田島のごとく。

それは「無理して楽しもうとしている」のでは決してなく、むしろそのような歩み寄りの創造性の中にこそ、真の遊びというものが存在するのだ。何もない公園で自分の遊びを考え出す子供のように。

小田島の思想を借りれば

勉強は学ぶ側と教える側(テキスト)のワルツであり、『つまらない』『役に立たない』という感想は怠慢であって、『面白く』学べない、『役立つような』応用を考えられない学習者側の責任でもある。

ということになるだろう。

私も小田島を見習い、自分が勉強が好きという現状に飽き足らず、貪欲に学びの楽しさを追求する姿勢を保ち続けたいと思う。

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勉強の面白さを力説し、学びの意義を考え続ける受験コラム

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投稿日時: 2019/12/01 ― 最終更新: 2019/12/03
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