芥川龍之介
「阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じている」「幸福とは幸福を問題にしない時をいう」「われわれを恋愛から救うものは、理性よりもむしろ多忙である」

一般の文章と現代文が採用する文章の違い

まず入試問題というのは「その辺に数多ある文章」からランダムにピックアップされるのではなく「ちゃんと論理的に書かれている文章」からピックアップされている。

例えば書店に並んでいる新書とか、有名人の自伝とかいったものは、文章の論理構造が破綻しているものが多くて「しかし」が逆接として機能していなかったり、「つまり」がただの口癖として使われてたりと、割と好き勝手に書かれている。

こういう文章は「論理的に正しく読み取る」のは無理で「言いたいことを、文章の雰囲気や熱意で大雑把に読み取る」しかないし、実際にそれでほぼ事足りる。冷静に考えてみれば我々の日常会話だって「まあ要するに」とか「それでね」とか「けどさぁー」とか、全く意味のない単語や接続詞を挟みながら会話をしているが、実は相手の言っていたことを完全に勘違いしていた、なんてことにはならない。言語とは曖昧性を多分に許容しており、7割くらい正しければそれで通じるようにできているのである。

現代文とは日本語で書かれた数式である

ところが入試ではこうはいかない。もし「しかし」が逆接としてキチンと使われていない文章があった場合、いくら説得力のある文章でも「ここに『しかし』と書かれているのだから、ここは逆接のはずで、全く違う意味に解釈できるはずである!」とイチャモンをつけられる可能性がある。すると、大勢の人間が受ける公平な入試問題として欠陥があることになってしまう。

だから入試問題というのは「論理的に正しく書かれ、誰が読んでも同じ意味に解釈できる文章」というのが使われる。もっと砕けた言い方をすると

入試現代文は数式のように書かれている

ということである。特に評論文はそうである。小説や随筆だともう少し許容範囲が広がるが、それでも、あくまで論理的に読み取れる文章が採用される。

言葉のルールから、誰でも正確に「筆者の主張」を読み取れる

だから入試の文章で「AしかしB」が「A=B」の意味で書かれているような、その辺のタレント本(まあゴーストライターなんだけど)のようなテキトーな文章は使われない。もし入試数学で「1=2」なんてものが平気で書かれているのを見たら仰天するだろう。

「今日は台風だから、ピクニックに出かけよう」――この文はいくぶん詩的ではあるものの、論理性は0である。だからもしこういう文章を載せてしまうと、人によって解釈が分かれてしまうし、筆者の主張はこうであると確定させられず、現代文の文章としては使えない。「今日は台風だから、家にこもっていよう」のような文章なら「なぜ家にこもるのか」について共通の解釈が得られる。

長々と話してきたが、重要なのは、ここから現代文の性質を逆算して考えることである。

つまり現代文の文章が論理的に厳密に書かれている以上、それを読んだ感想は各人それぞれであれ、「筆者がなにを主張しているのか」については、文章の論理に従って100人が同じことを「筆者の主張」として抜き出すことが可能なはずである。

そして現代文とは、「筆者の主張」を論理に基づいて文章から逆算していき「このように書かれているから、こういうことを言っている」と確定させ、解答としていく科目である。

従って「傍線部はどういうことか」という問いがなされたときも、筆者の主張を「だが」「このように」「これ」「それ」といった論理記号を頼りに辿り「こういうこと」と筆者の主張をわかりやすくまとめていく。この点を勘違いすると、「どういうことかを聞かれて、解答者の考えを述べる」とか「本文に書かれていないことを書く」といった誤答が生まれる(→「現代文の問題では筆者が『神』」)。

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投稿日時: 2019/03/26 ― 最終更新: 2019/12/02
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