私は受験勉強を開始してから2年間、ずっと「東大模試を受ければ必ずA判定」という人間の領域に入りたいと思っていた。だからこそ「東大A判定を取るまでは入試本番を受けない」という条件を設けて勉強し続けてきたのだし、きっと「東大A判定人間」にはその時の自分とは全く違う世界が見えていて、非常に楽しく心地よく試験をこなせているのだろうと考えていた。

しかし私は、全範囲について十分に勉強したと思える状態になってもしばらくC判定状態が続き、中々その領域に入門できずにいた。

私は完全な独学だったので、自分がずっと知りたかった領域について語ってくれる知人がおらず、「東大A判定の世界」を長く知ることができなかった。今、自分がそれを語ることができるので、かつて私と同じ疑問をいだいている人たちのために、率直な思いを語りたいと思う。

A判定の世界は意外と普通

2年を超える受験勉強の末、ある時、いきなりA判定の領域に入れるようになった。しかし私自身が、実はA判定を取れたとは思っていなかったのである。逆に言うと、「A判定の世界」と「C判定の世界」が想像していたほど異なっていた世界ではなかったということである。

それは駿台の東大模試で、私は結果を知りむしろ驚いてしまった。ちなみに、同時に受けていた河合塾の東大模試でもギリギリでAに届かないB判定で、しかもその点差は大きなポカミスにより生じたものだった。

それでも油断なく勉強を続け、次の東大模試では、もっとハッキリした差が生まれた。確かその模試では文三のA判定ラインが(東大模試における)偏差値59、文一A判定が偏差値61くらいだったのだが、私は偏差値63ちょっとだったのである。問題を解いていても危なげなく、安定して全科目点が取れた、という感じだった。私はこの次の模試でも、A判定をさらに差をつけて取れたが、似たような感触だった。

私は嬉しかったが、同時になんだか物足りない気もした。A判定の世界は、私が思っていたほど「ラクショーで、楽しくて快適」という感じではなかったのである。まあ東大A判定といってもピンキリなので、最上位層はそんな感じかもしれないが。

十分な基礎力がもたらす不動力

A判定といっても、時間が物凄く余って寝てしまうとか、楽勝過ぎて笑えてくる、といったことはない。むしろ、時間的には相変わらずシビアだ。東大模試はいつでもタフな試験である。英語は油断していると時間切れになってしまい、余っても3分程度。また世界史 + 地理は、とにかく時間制限が厳しい組み合わせだが、全部書き切れるようになったのすらA判定を取れたあたりからだった。

しかし「ここが以前と違う」と感じる部分も確かにあった。まず全問に対して、落ち着いて、冷静に、粘り強く解ける。どんな問題が来ても、基礎知識に基づいて対処していける。これは基礎力のおかげである。

私は最初、勘違いしていたのだが、A判定を取れるというのは「A判定分の知識を詰め込んでいる」という状態ではない。「A判定分の知識が身体に浸透している」という状態である。つまり39度の高熱が出ていても基礎知識を使える、という状態である(→「受験勉強の急所」)。

そもそも東大は二次試験においてすら5科目を科すという、異常に教養を重んじる大学であり、生半可な演習量では「5科目全てにおいて、知識が十分に身体に染み込んでいる」という状態を維持できるものではない。あちらを立てれば、すぐこちらが立たなくなってしまう。

つまり各科目に対して無闇に「学習を深める範囲」を広げてしまうと、それぞれの科目の実力維持すら困難になる。これに気付いたとき、私はいたずらに知識を広げるのを止め、基礎を徹底的に深めることに集中した。

基礎が身に染みているから、基礎的な知識を脳の容量を消費せずに起動させることができ、目の前の問題への集中力を保ったまま、複数の知識を自在に組み合わせて対処することができる。だから当たり前の問題を、当たり前のように解ける。

当たり前を逃さず、ミスを極力排除する

それとここに来て、「東大模試は問答無用で全部受ける」ことによる演習量で培った実戦力も花開いていた。何度も試験を解く中で、どういうパターンでミスをし、どういうときに問題が起きるかを熟知しているから、問題を解く際にも様々なセーフティを仕込みつつ、まるで車掌が様々な安全確認手順を踏むかのように解くことができる。

例えば古文の人物名に丸をつける、注釈に先に目を通して見落としをなくす、といった手順も、何度も反復する中で作ったマイルールであり、ミス防止に役立っている。

当たり前の問題を逃さずに回収し、他人が取りこぼしていく問題も可能な範囲で拾っていく。難問は黙って捨てる。これだけでいい。これだけで東大A判定は安定する。A判定を取れる人は「難問を次々に、鮮やかに解く人」ではない。

それが顕著に表れるのは数学だ。東大模試の数学は、やはり難しい。しかし標準的な問題を確実に解き、残りは部分点をかき集めれば、それだけで上位1/3に入ってしまう。基礎ができるようになってから問題別平均点を見ると、東大受験生と言えど、数学においては「標準問題」「確実に確保したい問題」すらも十分に取れていないことに、むしろ驚く。だから標準問題をミスなく解くだけで差がついてしまう。ここでもやはり難問は関係ない。ほとんど誰も解けないからだ。

A判定を掴む最後の決め手は「解答探知力」

最後の決め手は「答えを腕力で掘り当てる力」とでも呼ぶべきものだ。あるいは「解答探知力」とでも呼ぼうか。

当たり前の問題を解くと、偉そうなことを言いつつも、やはりしばしば「これはどっちだ……?」とか「この問題はちょっと困ったな」という状況に陥ることがある。こういうときに以前は、運頼みに身を投げるしかなかった。だから確率はせいぜい五分五分だ。

ところが朝も昼も夜もなく問題と解答解説を突き合わせ「なぜこれが答えになるのか」「作問者は何を意図していたか」「どうすればその意図を読み取れるのか」といった考察を700日以上も続けていると、今度は逆に「こういう問題だから、答えはこれしかあり得ないんだ」とか「この状況でこれ以外が答えになるのはおかしい」という風に、問題がまともに解けてないのに、答えを逆算してサーチしてしまうことが可能になる。

あるいは、採点者側が「この人は理解している」と勘違いするようになる。あたかも中国語の部屋に閉じ込められたAIの返答を、人間からの解答だと錯覚するチューリングの後継者たちのように(→「作問意図を考えることこそ入試の極意」)。

すると五分五分だった問題の正答率が、7:3くらいの分の良い賭けにはなる。これが積み重なると、それだけでBがAにひっくり返るくらいの威力はあるのだ。

あるいは解答そのものを浮き彫りにできなくとも、少なくとも解答の方向性は見えるので、出題者の意図から外れたトンチンカンな答えを書いて0点になるようなことがなくなる。

思えばこれが「なぜか最後に正解を掴むヤツ」「試験問題を解くのが巧みな人間」たちが、無意識にせよ意識的にせよ使っている、見えないテクニックだったのだ。

これは始原まで遡ると「読書感想文で大人が望む模範的な文章を探るテクニック」みたいなものだ。つまり変哲のない石を0から掘って彫像を作る、ボトムアップ式の知識と技術に加えて、逆に石の中から彫像の形を発見して掘り出してやるという、トップダウン式の思考法を同時に併せ持ち、問題を挟み撃ちにすることによって解答の確度をより高めていくことが最後の秘訣だったのである。

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投稿日時: 2019/08/06 ― 最終更新: 2019/11/30
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