受験時代に駿台模試の解答解説を読んだとき、一番呆れたのが「ら抜き言葉は減点」という採点基準である。「そのような“誤った日本語”は使うな」と書いてあった。少なくとも2015年まではそう書いていたはずである。

ら抜き言葉は「進化した日本語」

ら抜き言葉は「誤った日本語」ではない。ら抜き言葉は「進化した日本語」である。ら抜き言葉は「ら」という文字が同時に抱え込んでいた「可能」「受け身」「尊敬」の意味を分離し、より少ない文字数で、意味伝達のエラー率を下げるという言語的に有意義な改善を行っているので、日本語が「ら抜き」にシフトしていくのは必然である。

「ら抜き言葉」は、古くは芥川賞候補となった太宰治の実験的作品『道化の華』(1935)の中で早くも確認できる。余談ながら、太宰は本作に川端康成がケチをつけたがために芥川賞を逃し「刺す。そうも思った」との名言を遺している。

葉蔵の顏を見ぬように努めた。気の毒で見れなかつた。

『道化の華』

例えば従来の日本語では「食べられる」という文だけだと、これが「目上の人がお菓子を食べた」のか「調査兵団の人間が巨人に食われた」のか「賞味期限を5年過ぎたカップ麺も食べることが可能」なのかは判然としない。もちろん文脈判断すれば十分に分かることが大半だが、それでも場面によっては断定できないし、学習者にとってもややこしい。

ところが「ら」の脱落により、「食べられる」「食べれる」と、「可能」の意味が綺麗に分離する。「ら抜き」の優れた点は、この意味の分離を、新たな記号を増やし、表現の手間を増やして実現するのではなく、むしろ手間を減らした上で意味的な混乱をも抑えている点にある。

「ら抜き」は日本語の進化系なのである。私は文学部に所属して中国語、フランス語を学び、統辞論などもかじったが、どの言語であっても「より省力的に」「より意味を明確に」しようと変化する傾向が見られる。言語は生物であり、「ら抜き言葉」は言語の進化論の証左なのである。

「正しい日本語」という化石

これは言語の使い手の事情を考えれば当然の話で、毎日大量の言葉を使っているのだから、誰であっても省略しても済む部分は省略しがちになり、意味が不明確になりやすい部分は紛らわしくないように喋る。このような当然の改善運動が民族単位で無意識に行われ、言語は進化していく。

言語は本質的に民主主義的であり、使用例の多さそのものがその正当性を担保する。何故なら言語使用の目的は意味伝達そのものにあるからである。文化庁の調査では、2015年にはじめて「ら抜き」使用者が過半数を超えたという。これはつまり「ら抜き」が民意だということである。

そもそも「正しい日本語」とは何か?「ら抜き」を減点する講師の言う「正しい日本語」というのは、所詮「ある時、ある場所で、日本の優秀な学者さんたちが集まって『これを“正しい日本語”としましょう』とした取り決め」に過ぎない。

それは国語というものを明確化するために必要な取り決めではある。しかしそれは始めから、言語という生物の生態に反した姿勢である。そこに「正しい日本語」が「正しい日本語」足り得る妥当性はない。

「偉い人がそう決めた」というだけなのである。「正しい日本語」とは、化石であり、「進化を忘れた日本語」のことである。「ら抜きは美しくない」というのは「俺が聞き慣れないから、美しく感じない」ということである。

つまり「正しい日本語」とは、「進化を忘れたピカチュウ」みたいなものである。それを拒絶し、あまつさえ減点するのは、「ピカチュウの方が可愛い」と言って他人のゲームボーイをひったくり、進化のキャンセルボタンを押す暴挙にも等しい。

ピカチュウの進化形であるライチュウの説明文には「インドぞうでも気絶する」と書かれているのをご存知だろうか。

ピカチュウは本来「インドぞう」を倒せる器を持っている。「インドぞう」の詳細は不明だが、とにかくピカチュウは「インドぞう」を倒す宿業を持って生まれており、それは誰にも止められない。従ってピカチュウはライチュウに進化せねばならないのであり、その進化の可能性を「ピカチュウは私が子供の頃からピカチュウだった。そしてピカチュウは可愛い」などという人間の勝手な都合で封じ込めることは許されないのだ。

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投稿日時: 2019/10/25 ― 最終更新: 2019/11/02
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