小・中・高という義務教育の過程で学ばなければならない、最も重要なことは何かというかと、それは「世の中には全く立派なところがない、いばるしか能がなく、なにかにつけてハラスメントばかりしてくる大人たちが山程いる」ということである。これを「隠れたカリキュラム」と呼ぶ。

「親や教師を問答無用で尊敬せよ」などという暗黙の規則は出来るだけ早く、その辺の排水口にでも投げ捨てるべきであり、クソ教師たちを反面教師として軽蔑しながら「彼らのようにだけはなってはいけない」と、授業のたびに悪霊退散を唱えつつ、くだらない授業を無視して内職や睡眠などの有意義な時間に割り当てるのが、学校の正しく健全な過ごし方であると言えよう。そうでないと精神を病む恐れがある。クソ教師の授業を拒絶することは正当防衛であると言っても過言ではない。

クソ教師爆誕の病理

クソ教師はなぜクソ教師になってしまうのか?それは彼らが、どうせ相手はガキだと舐めてかかっており、また生徒には大人である彼らを責める権利が与えられていないので、その人物の歪んだ部分が歪んだまま許され増長していくからである。

ある人はこの手の教師について「彼らは社会人ですらない」と言い捨てていた。つまり彼らは学校で育ち、大学を卒業して、そのまま教師として学校にカムバックしてくるので、学校という閉じた環境から外に出ない。そして日中は、もっぱら自分より立場が弱い子供たちばかり相手にするので、他人から叱られたり謙虚になる機会が少なく、子供相手に「おまえらは子供だから分からないだけだ。俺が正しいんだ。謝りなさい」という強圧的な態度を取り続け、それが通ってしまう。

簡単に言えば「生徒を縛るルールは存在するが、教師を縛るルールは存在しない」という不均衡の下に暴政が行われている。

そしてこのような暴政独裁に慣れた教師は、精神状態がガキンチョのまま歳を取るのである。学校というのは、精神年齢的には子供が子供を指導しているようなケースが多いのである。

もちろん中には、この人からは学ぶものがある、と感じるような、本物の情熱と人間性を備えた素晴らしい教師も存在する。しかしそれは数えるほどであり、私の高校までの課程ではついに数人しか確認できなかった。まあ私が育った小・中学校はただの公立なので、もっと良い環境で育った人たちの印象は別かもしれないが。

特に私の中学校は酷かった。ほとんど教師という肩書のチンピラ集団が学校を占拠しており、教頭ですら「暴力教師」として恐れられ、生徒の生意気な態度を見るや壁に叩きつけたりするような暴政が、平気でまかり通る場所だった。1998年~2001年のことである。

学校のヘンテコなローカル・ルール

この学校のおかしな習慣が「授業の前に毎回担当者が職員室まで行き、教師に頭を下げて授業をお願いしなければならない。さもなくば授業を行わない」というものであった。誰が始めたのか知らないが、多くの教師が採用して、猿山のボスザル気分を満喫していたようである。

こんなシステムに何の意味もない。教師は当然、自分の授業スケジュールを把握しているのであり、授業に来ないのは彼らの職務放棄である。にも関わらず、彼らはもし担当者が休み時間を潰して「お願い」に来なかった場合、当然のように授業を放棄した上で「なぜ職員室まで来なかったんだ」とキレたのである。多少でも分別のある教師はこのシステムを採用しなかったが、長く学校という閉鎖環境にいて、異常な雰囲気に慣れてしまうと、ついにこのような狂気に対しても何の違和感も感じなくなるという例である。

この正気とは思えない習慣は、さすがに私が経験してきた学校の中でも最悪の部類だが、どこの学校にもおかしなローカル・ルールの1つや2つあるようだ。学校教育で感じる教師の異常というものは、生徒と教師という力関係を利用し、このように異常が異常のままでまかり通ってしまうがゆえに定着してしまうのだと強く感じた。

私はこのような「生徒に正しいマナーを身に着けさせる」という口実を用いた、過剰な接待や服従を要求するハラスメントは、多くの学校に潜んでいるのではないかと睨んでいる。

教師の悪用する責任転嫁術

他にもこの中学では、体育の授業中に熱中症で倒れた生徒が出たときに、次の授業で体育教師がヘラヘラ笑いながら「この程度の暑さで倒れるなんて、てめえもてめえ自身が情けねえだろぉ」と言い放ったので、絶句した覚えがある。

なんとこの最低体育教師は、自分の管轄下で生徒が倒れた原因を、相手の体力のなさのせいだとし、責任転嫁してごまかしたのである(ちなみにその生徒は結構がっしりした体型だった)。

体育教師というのは、まだ発達途上の子供の身体を預かって管理するという責任重大な役割を担っており、様々な教科担当の中でも特に細心の注意と心配りが必要となるはずである。よって日差しの厳しい中で追い込みをかけて生徒が倒れるなんていうのは大失態中の大失態、下手すれば死亡事故に繋がるものだが、それをこの教師は「おまえが情けないからだ」と厚顔無恥に言い切ったのだ。

この手の教師という立場を利用した醜悪な責任転嫁やごまかしは、学校教育現場では何度も目にした。

クソ教師は軽蔑して過ごそう

私は中学二年までは比較的大人しい生徒として過ごしていたのだが、中学三年になると「クソ教師はなぜクソなのか。我々はなぜ反抗しなければならないのか」というのを理屈として説明できるようになったので、俄然、猛烈に反抗するようになった。これには「こいつは従順な生徒だ」と舐めてかかっていた教師側も少し面食らったようである。

私は彼らが迂闊に暴力を使えば、本来むしろ彼らの立場が危ういことを把握していたし、それをこちらが把握していることをほのめかして牽制した。彼らは生徒と教師の力関係を利用してそのプライドを搾取し続けてきたが、今度はこちらが教師の弱みに乗じて反撃したのである。

どこの学校にもクソ教師というのは存在するだろうし、彼らがいかに詭弁を弄したところで、子供というものは理屈は分からずとも直感で「この大人の言っていることは何かおかしい」と感じ取れるものである。クソ教師の言うことなど耳に入れなくていいし、従わなくていい。彼らのような軽蔑すべき人間の習性を把握し、以後の人生で似たような人間から受ける被害を最小に抑えることが、クソ教師との遭遇を人生の糧として役立てる、せめてもの道だと思う。

たとえば、中学校の教師だって、その裏の生活は、意外にもみじめなものらしい。(中略)そんなつまらない人が、いつもいつも同じ、あたりさわりのない立派そうな教訓を、なんの確信もなくべらべら言っているのだから、つくづく僕らも学校が嫌になってしまうのだ。

太宰治『正義と微笑』

蛇足の映画紹介

このようなクソ大人たちを風刺した映画として、巨匠アッバス・キアロスタミによる『友達のうちはどこ?』(’87)がある。友人のピンチのために、主人公の少年が理不尽な大人たちの暴力をかわしながら小さなアドベンチャーを繰り広げる話である。少し古いものの良く出来た映画なので、今回の話に思うところがある人にはオススメ。

***

勉強の面白さを力説し、学びの意義を考え続ける受験コラム

『文客堂』の勉強記事のバックナンバーはこちら

LINEで送る
Pocket

投稿日時: 2019/09/19 ― 最終更新: 2019/11/27
同じテーマの記事を探す