投稿日時:2018/10/19 ― 最終更新:2018/10/28

太宰治『女生徒』

朝は健康だなんて、あれは嘘。朝は灰色。いつもいつも同じ。一ばん虚無だ。

太宰治『女生徒』冒頭より

カロリーの高い作品だ。それでいて味が濃い。

私はこの作品を一気に読み通すことはできない。必ず数ページおきに自己の体験と突き合わせ、主人公である女生徒の言葉について思考を巡らす作業を必要とする。作品と格闘しなければならない。何故なら『女生徒』は筋を追う作品ではないからだ。本作は、話としてはある「女生徒」が自分の1日の目覚めから就寝までを事細かく書いていく作品であり、その1日は極めて平凡である。しかしその中で女生徒の複雑な内省と、緻密な人間観察が、非凡な感性で以って描かれている。平凡な1日を、哲学者の資質でもって鋭く捉えているからこそ、この作品は普遍性を持つ。

『女生徒』は、厭世の少女が1日を自分の感覚で「表現」した作品なのだ――女生徒特有の可愛らしさと残酷さを伴って。『女生徒』は、ポップな苦悩の書である。

本作の文体は非常に「可愛い」。「朝はいじわる」とか「眼鏡は、お化け」とか、若い女性特有の、リボンに包むようなレトリックで日常が表現されている。しかし油断していると、現実を射抜く言葉のナイフでめった刺しにされる。例えば女生徒の家には2匹の犬がいて、一方は美しいジャピイ、もう片方は障害を抱えた「可愛そうな」犬のカアである。女生徒は2匹を比較して考える。

カア、早く、山の中にでも行きなさい。おまえは誰にも可愛がられないのだから、早く死ねばいい。私は、カアだけでなく、人にもいけないことをする子なんだ。

ひっくり返ってしまう。「あどけなさ」と「率直な嫌悪」の強烈なコントラスト。

よく「子供は時に、大人以上に残酷」と言われる。それは白紙に墨汁を垂らせば色のついた部分が際立つように、子供たちの無垢性が残酷性を際立たせるからである。大人の憎悪は不純物が多く、生ぬるい。逆に子供たちはイノセンスだからこそ、子供が抱く嫌悪や憎悪はラディカルであり、問答無用の生理的な敵意の強烈さを感じずにはいられない。『女生徒』は、とびっきりのキュートなデコレーションを施された核弾頭である。

女生徒は欺瞞の虜囚

中盤以降の女生徒の人間観察は、人間が社会の中でとる「ジェスチャー」の欺瞞性に向けられる。他人の笑顔、お辞儀、褒め言葉といった「ジェスチャー」から発せられる汚臭に、彼女は息をつまらせる。女生徒の家に今井田夫婦がやってきて、互いに社交辞令を並べ合うシーンでは、彼女の葛藤が生々しく描写される。

私はそんな気持を、みんな抑えて、お辞儀をしたり、笑ったり、話したり、良夫さんを可愛い可愛いと言って頭を撫でてやったり、まるで嘘ついて皆をだましているのだから、今井田御夫婦なんかでも、まだまだ、私よりは清純かも知れない。

お互いに相手にとって都合の良いキャラクターを演じ合うことにより、くだらない、欺瞞だ、私は本当はそんなこと感じてないけどね、と思いながらも、誰もこの茶番劇から降りることができない。

相手がお世辞を言う。自分がそれを完全否定したり「そんなこと思ってないでしょう」と言っても意味がない。相手はシラを切るだけで、自分が「人に噛み付く変なやつ」になってしまう。だから自分も謙遜という紋切型のやり過ごしをしながらお追従をする。互いが互いに演じ合い、いつまでも真実の交流にたどり着かない、合せ鏡のような欺瞞の無限連鎖を断ち切る契機が、女生徒にはどうしても発見できない。

お母さん、そんなにまでして、こんな今井田なんかの御機嫌とることは、ないんだ。お客さんと対しているときのお母さんは、お母さんじゃない。ただの弱い女だ。

女生徒の日常は、いつもこんな葛藤を抱えているのだろう。葛藤を葛藤として持ち越したまま、女生徒の一日は終わる。そこにブレイクスルーとなる思考転換や、日常の破壊が訪れるわけではない。

ただし物語の最後にはいくらかの救いがあり、昼間とは違う優しい視線が周囲に注がれ、女生徒の就寝は穏やかである。

明日もまた、同じ日が来るのだろう。幸福は一生、来ないのだ。それは、わかっている。けれども、きっと来る、あすは来る、と信じて寝るのがいいのでしょう。

根本的な救いなど永遠に来ないかもしれない。しかし人間の不完全性と弱さが人の世の呪いならば「他者への許し」と「自己救済の祈り」を捧げて眠るしかない。それが人が生き続けるための「浄化の儀式」なのだ。そうでなければ呪いの累積に押しつぶされ、死ぬしかないのだから。

なお本作は後年の研究により、太宰ファンの女生徒が送った3ヶ月分の日記を、1日の物語として再構成した小説であることが判明している。そのためこの女生徒の感性は本物である。日記から持ってきたと思われる箇所は全体の9割にも及び、本作における太宰の創造的役割は低いとする批判もあるほどだ。ただし取り留めもなく綴られた個人の日記のエッセンスをここまで圧縮した太宰の編集者としての役割は、やはり過小評価するべきではない。私としては二人の共作として良いと思うし、作者が誰であれ、本作が傑作短編であることは事実である。

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