『羅生門』(小説)下人のポジショントーク

芥川らしい簡潔で力強い筆致、リズムのある文体、味わい深い情景描写で時間経過も並行して表現する無駄のなさなど、文筆そのものの巧みさもさることながら、人間心理に潜む無意識的エゴイズムもまざまざと描いてみせた、言わずと知れた代表作。

『羅生門』の真髄は「状況決定される倫理観」にある。

人間は、倫理観とは不動の、人間社会に通底するある種の「真理」のようなものだと考えたがる。「倫理観」に「真理」のような普遍性・超時代性が担保されていなければ、社会生活を営むことすら困難である。例えば昨日までは「他人の物を取ってはいけない」と信じていたが、次の日になって「よく考えていれば、そんなこともないか。よし、目の前の老婆の鞄を引ったくって、今夜は朝まで豪遊だ」などと無節操に考えを変える輩が大勢いれば、人間社会はたちまちカオスと化す。そうならないのは、人間が「正し」くて「普遍的」な倫理観を持っているからである、と我々は考えようとする。

しかし『羅生門』において芥川は、そんな薄っぺらい倫理観への盲信は無力であり、人間は無意識のうちに頭の中でソロバンを弾き、打算的にその場に応じた倫理観を選択している利己的な存在に過ぎない、ということを痛烈に描いた。

当初、羅生門で雨宿りをしていた下人には、生き残るために盗人になる「勇気」がなかった。しかし羅生門の上で死人の髪の毛を抜いている「邪悪な」老婆を見るに「この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いてきた」とある。この時、直前まで自分が「生き残るには、犯罪を犯すしかないのか」などと思い悩んでいたことは、そっちのけである。

決定的なのは次の下り。

この時、誰かがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、飢死をするか盗人になるかという問題を改めて持ち出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、飢死を選んだであろう。

下人はこの時「心の底から」悪を憎んでいるのである。さっきまで盗人になるか迷っていたのだから、そんな正義心が「心の底」にあるわけないじゃないか、と思うかもしれない。しかしこれこそが非意識が表層意識の操舵に使う、魔術的な技巧の核心である。つまり人間が自分の「心の底」にあると信じている「不動」の「私の価値観」、私という精神の「源泉」から湧き上がってくる「純粋」なるもの、それこそが実は非意識によって常時改ざんされ千変万化する、利己的な、状況決定的な倫理観なのである。

しかし自らの精神を十分にコントロールしていると信じる表層意識は、この事実を遠ざけようとする。快楽と生存のために最善のポジションを確保しようとするしたたかな非意識は、汚れなき主体でありたい表層意識を巧妙にサポートし、結果として我々は、無節操に立場を変えながらも、そんな自分に都合良く「気付けない」幸福な正義者であり続けようとする。ここで二つの意識による、一種の共犯関係が成立するのである。

下人は老婆を取り押さえにかかるが、しかし己の暴力の優位性を確認するやいなや、あっさり信念がブレてしまう。

下人は始めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されていることを意識した。そうしてこの意識は、今までけわしく燃えていた憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしまった。

下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。

下人の「正義心」は、生殺与奪の権利を握った途端に自分本位の「ヒロイズム」へとすり替わり、羅生門は俄に舞台性を帯び始める。下人は、老婆が「おぞましき悪事」を滔々と白状することを密かに期待し、自らは悪を裁く正義漢を無意識的に演じ始める。しかし下人が頭の中で描く勧善懲悪のストーリーは、現実世界には重ならない。老婆の白状した犯罪の動機が、劇の題材としては「ショボかった」のである。

興ざめした下人の非意識は、羅生門に舞台装置としての価値なしと判断すると、あっさり勧善懲悪の構図を投げ捨てて、この場での利益を最大化する方向へ働く。つまり、老婆の衣を剥いでの逃走である。陶酔できないのにこれ以上、ここで「お役人ごっこ」をしている理由はどこにもない。この場には下人と老婆しかいないのだから、自分が酔えない演劇は空疎な茶番劇である。

ここにおいて冒頭の「盗るべきか盗らぬべきか」という逡巡は全く出てこない。躊躇っていた一線をとっくに超えていたからである。ここでも再び、冒頭の「倫理的葛藤」が結局のところ「犯罪へ踏み出すことの度胸のなさ」のすり替えに過ぎなかったことが暴かれる。

「下人の行方は、だれも知らない」という最後の一文がいい。声高に正義を唱えたり、主義主張を喚き散らしたり、都合よく立場を変える人間の矮小さと、そういう人間存在のどうでもよさがシニカルに描かれている。

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投稿日時: 2018/09/29 ― 最終更新: 2018/09/30
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