世の中には2種類の本読みがいて、それは『道化の華』を読んで「奇を衒ってるだけじゃねぇか」と思う本読みと「かっけぇー」と思う本読みである。前者にとって太宰は『人間失格』と『斜陽』だけの作家になる。全集などで発表順に太宰を読み始めた人は、まず『葉』で試されて『道化の華』で中期太宰まで踏み込むかが決まるはずである。

全体として太宰というのは、フランス文学かぶれ的なメタフィクションの作家なのだ。『道化の華』は「作中で作者が解題しながら話が進行する」というメタフィクションを、太宰の中で初めて本格的に取り入れた作品であって「作中で作者が文章の意図を語ったり、主人公の名前を品評したりするなんて、洒脱じゃない?」という作品である。まあサッカレーの『虚栄の市』の模倣なのだが。

大学の先生風に語ると、こういう作風によって太宰は現実と虚構の境を曖昧にしていく作家で、 そのスタイルは『猿面冠者』『懶惰の歌留多』『風の便り』と、どんどん発展していく。それで「太宰文学と虚構」みたいに大真面目な文章を書くこともできるのだが、結局のところ太宰は、まず「こういうスタイルが実験的でカッコいいのである」という「やりたいこと」が先にある作家で、そのスタイルによって生まれる効果は後付けだと私は考えている。

考えているというか、『道化の華』の文学論の中で本人がそのことを告白している。『道化の華』の書き出しは「ここを過ぎて悲しみの市」というエピグラフなのだが、これについて太宰は以下のような解説を加える。

それから最初の書きだしへ返るのだ。さて、われながら不手際である。だいいち僕は、このような時間のからくりを好かない。好かないけれど試みた。ここを過ぎて悲しみの市。僕は、このふだん口馴れた地獄の門の詠歎を、栄ある書きだしの一行にまつりあげたかったからである。ほかに理由はない。もしこの一行のために、僕の小説が失敗してしまったとて、僕は心弱くそれを抹殺する気はない。見得の切りついでにもう一言。あの一行を消すことは、僕の今日までの生活を消すことだ。

太宰治『道化の華』

つまり「ここを過ぎて悲しみの市」という気の利いた冒頭の一句を使いたい、という願望が先にあって、それから逆算する形で前半の部分を書き上げているのである。さらに「ほかに理由はない」「あの一行を消すことは、僕の今日までの生活を消すことだ。」とまで書いている。太宰にとってこういう「形式的なカッコ良さ」を追求することが、彼のこれまでの作家人生であって、だから『葉』のような、凝り過ぎてもはや小説として破綻しているポエムが生まれるわけだし、太宰はそのスタイルと心中する覚悟でいる。

太宰というのはフォルマリズム(形式主義)の作家なのである。前衛主義、芸術主義と言ってもいい。そういう点で、映画監督で言うとタランティーノに近いと思うし、彼らの作品は実験のための実験という部分があるから、これを「くだらない」と思う人と「カッコいい」と思う人に分かれるのである。

「太宰はキャッチコピーの天才」という評価がある。『人間失格』なんて、そのインパクト絶大なタイトルと「恥の多い生涯を送ってきました」という切れ味抜群の出だしがあったからこそ傑作と評価されたのだ、という話なのだが、太宰がそういった方面に異常に長けているのは、このような形式主義的なカッコ良さの追求――こんなカッコいいことを言ってみたいという願望――があったからこそだろう。

私はそんな実験作家である太宰を「かっけぇー」と思う本読みだ。『道化の華』に芥川賞を与えなかったのはおかしかったと思うし、そんな川端康成が太宰から「刺す」と恨まれたのも仕方なかったと感じる。

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投稿日時: 2019/09/15 ― 最終更新: 2019/09/25
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