投稿日時:2018/12/25 ― 最終更新:2019/01/07
太宰治『女生徒』

夢にしては、いやにはっきりしているようでございます。あなたには、おわかりでしょうか。まるで嘘みたいなお話でございます。

太宰治『誰も知らぬ』

誰も自分の思考や行動の源泉を正確に把握してなどいない。例えば私は今こうして太宰作品についての文章をしたためているが、彼の作品を読み始めたきっかけ、いやそもそも文学をなぜ読み始めたのかすら判然としないのだ。『人間失格』という怨念めいたタイトルの呪詛にやられて引き寄せられたのかも知れず、あるいは単に文学が何となく高尚そうなものに思えて、自分もそれに関わる人間でありたいという、スノビズムまみれの功利的理由から始まったのかも知れない。

『誰も知らぬ』の登場人物たちの行動原理は、自律的でありながら他律的に見え、しかし当の本人でさえ、自分が起こしている行動の真の目的について無自覚なようである。己も解っていない己の問わず語り。例えば語り手の安井夫人が親しみづらさを感じていた祖父が亡くなったとき 、涙を流したという場面の語りからは、名状しがたい違和感を感じる。

みんな私にお悔やみを言って下さって、私はその都度、泣きました。お友達からも、意外のほどに同情され、私はおどおどしてしまいました。

友人の前で涙を流したのは「祖父が死んだことを悲しむ私、身内が亡くなれば涙を流す私」であることを促されたからではないのか。ここでは他人の視線や言葉による働きかけによって、その行動が生じたに過ぎない。

これは物語の佳境である、友人の芹川が文学について熱心に語る場面、そして安井が芹川の兄を追いかけていく場面にも共通する。芹川が安井の感性を俗っぽいと評するのだが、直後に彼女が妙に熱心に文学にのめり込んでいる原因が、文通相手の美男子の趣味であったことが暴露される。穿った見方をすれば、芹川の文学への奇妙な傾倒の裏には、恋人にもっと気に入られたいという下心が潜んでいる。安井を俗と笑う資格は芹川にはない(余談だが、この部分のトークは太宰の文学論が垣間見えるようでとても面白い) 。

その後の芹川兄に向けての語り手の狂奔の正体も、恋人との甘いロマンスに走った友人への羨望であることは語るに及ばない。ここでも語り手の行動原理は、実のところ他人にあてられたことで生じたものであり自律的なものではない。芹川兄は、猛烈な恋の渇望に襲われた語り手にとって、たまたま手近にいた都合の良い男であったに過ぎない。あけすけに言えば誰でもよかった。しかし人間がいくら自らの行動理由を高尚なものとして語っても、所詮その意識に潜在する動機はこんなものなのかもしれない。安井の行動を薄っぺらい、動物的だと安易に軽侮することが誰にできよう。

このように他律に騒ぎ回る人物たちを女性として描くことの狙いが、共感の社会に生き、他人と己の感情を時に混同・同質化する傾向の強い女性の性質に着目したためだとも感じられる。そして『誰も知らぬ』――このタイトルは表面的には「安井婦人の一夜の狂奔を誰も知らぬ」という意味だが、実は「己の行動原理を誰も知らぬ」という意味ではないかと深読みするのは、牽強付会の誹りを受けるだろうか。

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