織田作之助の口癖「多角形は円にならない」は正しいか?

2021/08/21 ・ 日本文学 ・ By 秋山俊

織田作之助(以下、織田作)の作品を小説・随筆問わず、連続で読んでいれば、すぐ気がつくことがある。それは「多角形の辺を増やしても円にはならない」というフレーズが頻繁に出てくることだ。このたとえは「いくら似せようとしても、近似がせいぜいで、本当の意味でそれ自身になることはできない」「別物は別物」という意味で使われている。

織田作はこの「多角形論法」を本当によく使う。たとえば……

エッセイ中での多角形論法

いくら小説の中にある思想をひきだしても、それで小説を語り得ないのは、譬えてみれば、多角形の辺を無数に増して円にしようとする努力と同じである。

『文楽的文学観』

映画が文学に近づこうとしても、それは多角形が円に近づこうとするようなもので、多角形の辺を無数に増やせば円に近づけるかも知れぬが、それは幾何学の夢に過ぎない。

『映画と文学』

小説内での多角形論法

人間を円にたとえてみれば、われわれはたいていの場合、この円を多角形に歪めて考えることが多い。多角形の辺を増せば円に近づくごとく、観念的な言葉の辺を増すことによって、その人間に迫ることが出来ると、一応考えられるが、しかし、多角形が円になるのは幾何学の夢に過ぎない。

『夜の構図』

現実を三角や四角と思って、その多角形の頂点に鉤をひっかけていた新吉には、もはや円形の世相はひっかける鉤を見失ってしまったのだ。多角形の辺を無数に増せば、円に近づくだろう。そう思って、新吉は世相の表面に泛んだ現象を、出来るだけ多く作品の中に投げ込んでみたのだが、多角形の辺を増せば円になるというのは、幾何学の夢に過ぎないのではなかろうか。

『郷愁』

カレーを食う織田作之助は幾何学の夢を見るか

他にも探せば色々あるだろうが、ざっとこれくらいはある。しかもフレーズ全体が毎回似通っている。

「多角形の辺を増せば円になるというのは、幾何学の夢に過ぎない」

これである。恐らく、織田作は現実世界でも事あるごとにこの多角形論法を用いて、人を説き伏せてきたことだろう。

戦後の織田作は恐るべき多作として知られた。それはヒロポン(覚醒剤)のドーピング以外にも、彼がフレーズや文章内容をよく流用してたから、というのはあるかもしれない。

これを書くと織田作を貶すことになってしまうかもしれないが、実際彼は、作家としては流用に頓着しないタイプだったと思う。たとえば最近私は『「可能性の文学」への道』や『織田作之助全集 8』などで、彼のエッセイをまとめて読んだ。すると内容的に重複していたり、言い回しが似た感じのものが多いのだ。作家には流用が嫌いで毎回新しい表現や内容をひねり出すタイプと、同じ内容を微妙にズラして反復するタイプがいるが、織田作は後者なのだろう。

何度も出てくるとちょっと飽きるが、数学をたとえに使うのは、文章表現としては面白くなりやすい。というのも、物書きは概して数学が苦手なので、数学的感覚による比喩が少なく、新鮮に感じるからだ。織田作は初等幾何の話だが、小林秀雄はさすがにケレン味がたっぷりあり、微積分でたとえたりもしている。

織田作之助のたとえは正しいか

ところで多角形の辺はいくら増やしても円にならないのか?これは実は少し難しい問題である。

知られている限り最大の作図可能な正素数角形である正65537角形は、「ほぼ円」となる。

実際に作図された正65537角形

厳密には「真円」ではない。しかし見た目では判断できないほど「ほぼ円」なのだから、織田作のたとえ話のレベルなら、「でも、正65537角形はほとんど円ッスよ!」と論破することも可能な気がする。織田作は真円を問題にしていたのか?

その辺はよくわからないが、「織田作のモノマネをしています!」という絶滅危惧種な方がいた場合、事あるごとに「多角形の辺を無数に増やしても……」というフレーズを挿入すれば、いかにも織田作という風味が増すだろう。

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初版:2021/08/21 ―― 改訂: 2021/08/24

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