投稿日時:2018/11/17

しかしこの便器の中の糞尿もどうにか始末をつけなければならぬ。その始末をつけるのが除糞人と呼ばれる人々である。

芥川龍之介『尼提』冒頭より

芥川にしては些か珍しいユーモア小説。しかも説法の体を装いながら、芥川の格調高い筆遣いで、なんだか有り難いお話のような雰囲気で語られるから、なんとも可笑しい。これが学校とか、寺の中とかで、真面目くさった顔の教師によって朗々と読み上げられるのを想像すると堪らない。もし私がその場にいる学徒なら、込み上げる笑いを抑えるのに苦心し、横隔膜が痙攣を起こすであろう。もしあなたが学生で、文学作品を皆の前で朗読する機会が与えられたのなら、この作品を選んで欲しい。さだめし大ウケに違いない。

この小説はまず、ウンコと釈迦についての描写が交互に行われるという、掃き溜めに鶴のようなデペイズマンの手法で、真面目な調子の文章内に巧妙にユーモアを忍ばせている。序盤の尼提と釈迦の遭遇する場面を見てみよう。

尼提はこう言う如来の前に糞器を背負った彼自身を羞じ、万が一にも無礼のないように倉皇と他ほかの路へ曲ってしまった。

こう言う大慈悲心を動かした如来はたちまち平生の神通力により、この年をとった除糞人をも弟子の数に加えようと決心した。

「大慈悲心を動かし」「神通力により」「除糞人をも弟子の数に加えようと」と、ここでも釈迦の大仰な描かれ方に対し、ウンコを背負った除糞人のせせこましい様子が対比的に描かれる。釈迦が壮大に、超俗的に描かれるほど、その相対している対象がウンコであるという落差が滑稽さを演出しているのである。

除糞人である尼提は、卑しい身分の自分が、よりによってウンコの運搬中に神聖不可侵なる存在と遭遇してしまった幸福中の災いとでも呼ぶべき事態に難儀し、路地を一本曲がって難を逃れる。しかしなんと、好き避けをする女子高生の如きその浅はかな戦術は、釈迦は余裕で見透かしていた。釈迦はわざわざ尼提の行き先に回り込んで追撃してきたのである。ならばと尼提がさらに道を曲がると、釈迦もやはり追撃してくる。もう完全にコントである。漫才である。

とうとう尼提が進退窮まってウンコをその場に落とし、糞尿の只中で「どうかここをお通し下さいまし」と懇願するシーンで大笑い。芥川のユーモアセンスに脱帽する。病んだ話ばかりじゃないのよこの人は、本当に。

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