投稿日時:2018/11/17 ― 最終更新:2019/04/17

「死のうか。一緒に死のう。神さまだってゆるして呉れる。」
ふたり、厳粛に身支度をはじめた。

太宰治『姥捨』冒頭より

アカデミズムの世界では、どうも『姥捨』は太宰の自殺を巡る資料的価値しか認められていないようで、作品としては凡作というのが、あたかも既成事実であるかのように語られている。曰く、リアリティがない、自殺をしようというのに呑気過ぎる、作品としてまとまりに欠け浅はかである、云々。

さらに作品の評価が芳しくないだけでなく、冬空の下で寝たら確実に凍死するであろうということから、本当に自殺未遂をしでかしていたらこんなリアリティのない描写をするはずがない、自殺は捏造である、とまで言われる始末。まさかフィクションが現実世界を脅かし、批評の槍が作品を貫通して本人まで突き刺さるとは、太宰治、予想だにしなかったであろう。オマケに作者が『姥捨』を「をばすて」と誤読していることまで指摘され、傷口に塩を二度三度と塗りたくられて文豪失格してしまった(正しくは「うばすて」。「をばすて」は「姨捨」)。

作家論としては、これと直前の『満願』こそが、快活さを伴う太宰中期の始まりとされていながら、『姥捨』には様々なケチがついていて、作品集に所収されるのも専ら『満願』という、一種の黒歴史扱いを受けている。

だがそもそもこういった評論は、自殺未遂の事実と小説とを不可分一体のものとして照らし合わせるからこそ、描写のリアリティへのオタク的な執着が生まれるのであって、これがあくまで1つの小説であるという事実を疎かにしているのではないか。

『姥捨』はユーモア小説なのである。主人公嘉七はこれから自殺する癖に妙に軽口を叩く。窓に向かって、誰も聞いてない独白を繰り返すほど痛々しい男なのである。

「冗談じゃないよ。なんで私がいい子なものか。人は、私を、なんと言っているか、嘘つきの、なまけものの、自惚うぬぼれやの(中略)」窓は答える筈はなかった。

『懶惰の歌留多』や『誰』にも見られるようなこうした自意識過剰の演説は、中期太宰に典型的な自虐諧謔の発露に見える。

他にも晩飯について話し合うかのような軽妙な自殺トーク、散々妻を守るポーズを取っておきながら、最終的には「この女と一緒にいたら破滅する」と投げ捨ててしまうダメ男っぷりなど、「なぁんちゃってね」の諧謔を十八番とする太宰のユーモアが随所に見られるではないか。『姥捨』はメンヘラ夫婦のなんちゃって自殺紀行なのである。グダグダの死ぬ死ぬ詐欺小説は、太宰治の独壇場だ。

そもそも「自殺描写にリアリティがない」だとか、熟練の自殺オタクである太宰先生に向かってよくぞ言えたものだ。そういう評者たちは自殺の1つや2つ、したことがあるのかな。あたかも明日があるかの如き軽妙な夫婦のやり取りは、自殺という悲惨な現実の裏返しとしての、シュルレアリスム的な演出なのだよ。現実に自殺するにしても、それまでは飯を食うとか宿を取るとかウンコするとか、日常的な雑事があるわけで、案外自殺する日の朝も朝ドラのヒロインの演技の棒っぷりにツッコミを入れたりとかしているのかもしれないね。

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