三島由紀夫の名言「男は一人残らず英雄である」

2021/08/18 ・ 日本文学 ・ By 秋山俊

男は一人のこらず英雄であります。私は男の一人として断言します。ただ世間の男のまちがってる点は、自分の英雄ぶりを女たちにみとめさせようとすることです。

三島由紀夫『第一の性』

「男はみな英雄である」という三島由紀夫の持論は、非常に力強い男性論で、『第一の性』は全男子必読である。初めてこの箇所を読んだときに、教科書に載せてもいいんじゃないかと思ったほどだ。

『反貞女大学』と対になる男性論『第一の性』

まず三島のこの言葉が書かれている箇所は、彼が三十代後半で連載したエッセイをまとめた『第一の性』という本。これは現在では、ちくま文庫から出ている『反貞女大学』というエッセイ集の中にセットでまとめられている。

先に『第一の性』という本自体を軽く解説しよう。

この『第一の性』というのは、もともとフランスの、20世紀を代表する哲学者であるサルトルの事実上の奥さんであった、シモーヌ・ド・ボーヴォワールという方の著作の『第二の性』をもじったものである。三島のエッセイ本は大抵、他の有名な本を元ネタにした言葉遊びになってる。ここでボーヴォワールの『第二の性』というのは女性のことを指してるのだが、それをもじった三島由紀夫の『第一の性』の方は、もう一方の性である男性について語った男性論の本になっている。

この『第一の性』の中で、三島は「男とはなにか」「男とはどういう生き物か」「なぜ女性は男性を理解できないのか」といったことを様々に論じていて、その中で、彼の男性論の中核を成す信念として、いきなり冒頭で語ったのが、今回取り上げている言葉である。

一見極論で、これを読むだけだと「そんなはずはないでしょ」という反論が出てきそうな言葉である。もちろん三島は、自分の願望とか、あるいは稚拙な男性優位論を振り回しているわけではない。この後に展開される彼の論理を追っていくと、「なるほど、確かにそう言えるな」という風に納得できる。ここでのキーワードは「英雄」という概念。

三島由紀夫のいう「英雄」とは

「英雄」は「何くそ!」精神である

ここでの「英雄」というのは、もちろん「命を張って子犬を助けた」とか「戦争で敵の将軍を焼き殺した」とか、そういう個別具体的な存在ではない。簡単に言うと「栄光を求めて競争せずにはいられない存在」という感じの、抽象的なものを指している。だから英雄たらんとする全ての男は、自分が英雄であることを証明するために、他の男に対して競争心を抱かずにはいられない。これが男の宿命的な部分だと。

男というものは、可哀想に、子供のときから嵐の中で育って行きます。嘲笑と悪馬と批評にさらされて、何とか人の笑い者になるまいとして心身をすりへらしています。男の子の世界では、第二次性徴の発達如何でも尊敬される度合いがちがってくる。

「何くそ! 何くそ!」

これが男の子の世界の最高原理であり、英雄たるべき試練です。こんな競争心のもっとも幼稚な部分が、大人になってもありありと残っていて、大体、胸毛なんてものは、人によっても好ききらいがあって、胸毛なんかにタワシはどの価値もみとめない女性も沢山ある筈だが、まず大ていの胸毛のない男は、胸毛のある男を内心羨ましがっている。

『第一の性』

要するにモテるモテないとか、そういうことではなく、男というのは他の男と、オスとしての純度や強度というものを本能的に競わずにはいられない。またそういった競争要素で優れている人間が、男性社会では尊敬される、つまり、より優れた英雄であると認められる。だから競う。女性は関係なく、男性同士で競ってる。

子供っぽい競争心が大事

さらに三島が言うには、この第二次性徴の発達のバロメーターである胸毛の濃さを競い合う行為は、女性でいうと胸の大きさを競うことと同列である。そういう原始的な競争心自体は女性にもあるものの、男性の特徴はその競争心が、政治とか哲学とか芸術とか、そういう他の領域まで、どんどん拡大してしまうということ。

つまり、女性は競争が美貌とかスタイルとか、肉体的な部分に集中しやすいのに対して、男性は精神的・抽象的な部分まで、全て同レベルで競争の対象として見なす特徴を持っている。

「オレの方が雄弁な政治家なんだ」とか「オレの方が哲学を深く語れる」とか、そういう風にどんどん競争を拡大せずにいられない。こういう子供っぽい競争精神を、大人になっても持ち続けることこそが英雄の資質であり、男性の特権なんだと、三島はそう言っているわけである。

そういう英雄的資質は、根源的には幼稚なものだが、逆にその幼稚な競争心を何にでも拡大して、自分を強くし続けることが男性の長所である……と。そこで大人になってしまって「そんなことで競ってもしょうがない」と達観したら、芸術や哲学はなかなか発展しない。そして先程も書いたように、男同士の競争というのは本能であって、女性にモテるかとはまた関係ない。

「男らしさ」と恋愛の勝者は別

ここで三島由紀夫の持論としては、本来はこういう競争心こそが「男らしさ」の本質であって、最近の社会で考えられる「男らしさ」とは、またズレがある。

つまり今議論してきたように、競争心の強さと範囲の広さこそが男の特徴なんだから、ひたすら持ち前の競争心を発揮して、自分をより尊敬される英雄に高めることこそが本来の「男らしさ」である。三島によるとこれは、昔の戦争のあった世の中だと、殿様のために毎日訓練して、戦争が起きれば戦えば良かっただけだから、そこに何の問題もなかった。男は女にモテるかどうかを気にせず、ひたすら英雄として他の男と競争に明け暮れていれば良くて、それで十分過ぎるほど「男らしい」し「人間合格」だった。

昔の社会でいう「男らしさ」は「兵士として優秀」と言い換えることも可能で、逆に女性にとって性的に魅力的に映る男というのは、どちらかというと歌舞伎役者みたいな、女性っぽさのある中性的な男性だった。「モテる男」と「男らしい男」が分離されていた。「モテる男」というのは女性に人気があるから、それが彼の存在理由になるし、「男らしい男」は国家や文化発展のためにひたすら自分を磨くという、崇高な目的のために邁進していた。

男はどう人生を生きるべきか

今までの話をまとめると、男というのは、「英雄たらんとする強烈な競争心を持っていること」こそが、まさに男の特徴であり男の証となっている。それは一見幼稚かもしれないが、実はそれは、国家を守り発展させるための、兵士とか政治家とか芸術家を生み出すために、人間にとって重要で欠かせない本能であり、それは崇高なものだった。

だから女性には、そんな男の競争心は理解し難いかもしれない。それでも人類が発展する原動力であることをわかってほしいし、男たちはその競争心を持っているというだけで、既に英雄なんだから、モテるモテないとかじゃなくて、英雄として生まれた自分を誇りに思って邁進すべきである、っと、三島はこういうことを言ってる。

だから「男は一人残らず英雄であります」という言葉の後、こう続くのである。

男は一人のこらず英雄であります。私は男の一人として断言します。ただ世間の男のまちがってる点は、自分の英雄ぶりを女たちにみとめさせようとすることです。

今まで見てきたように、男の英雄ぶりというのは男性の特権である。男同士じゃないとあまり分からないので、それを女性にまで認めてもらいたがるのは間違ってるよ、ということ。

実は本の一番最初の部分で三島は「男はとにかくむしょうに偉いのです」と発言している。「“むしょうに偉い”ってすごい言葉だな」っと、最初読んだとき、爆笑したものだ。今解釈すると、男はたとえ女に認められなくても、つまり性的な面では得しなくても、他人と競争して自分を高めずにはいられない。それは人類という種の単位で見れば、女に認められなくとも共同体に奉仕せずにはいられない、とも言える。だから「むしょうに偉い」ということなのだろう。

それで、この英雄としての男について論じた結論の部分で、三島はこう締めくくっている。

だから、男は一心不乱に男を磨いていればよろしい。そして獰猛で、デリケートで、孤剣を抱いて、月にうそぶく「男らしい」男は、あんまり女にもてもせずに、毎朝満員電車にもまれて、安月給の勤め先へ通勤している筈です。

この文はけだし名文で、繰り返し読んで諳んじたいほどである。

『第一の性』では、こんな感じに三島の男性論が始まって、そこから「男の清潔さ」「男のデリカシー」「男は愛され型」……っと、どんどん続いていく。全編にわたって膝を打つ男性論の連続で、『不道徳教育講座』よりも真面目であり、三島の名エッセイ集であると思う。ぜひ読まれたし。

日本文学の記事一覧

初版:2021/08/18 ―― 改訂: 2021/08/24

同じテーマの記事を探す