太宰治『玩具』 / 『晩年』の集大成となる構造小説

2020/12/17 ・ 日本文学 ・ By 秋山俊
ルノワール『おもちゃで遊ぶ子供』

どうにかなる。どうにかなろうと一日一日を迎えてそのまま送っていって暮しているのであるが、それでも、なんとしても、どうにもならなくなってしまう場合がある。

太宰治『玩具』(以下同様)

『猿面冠者』に始まり『懶惰の歌留多』で1つの極限に達する「“小説を書けない”と告白する“小説”」という自己矛盾的な小説の類型とみなせる。全体として、言葉よりも構成力で面白味を出しているトリッキーな構造であり、『晩年』収録作品で用いられてきた手法の集大成ともなっている点で、なかなか興味深い作品である。

『玩具』の構造と手法

序盤は太宰小説に典型な、親の金を使って生きる、飄々とした放蕩息子である「私」が、親に泣かれ悪罵されても意味のない微笑を浮かべて受け流している……という場面から始まるが、この部分は小説本体とは言い難く、

ここまでの文章には私は揺るがぬ自負を持つ。困ったのは、ここからの私の姿勢である。

という文章から作品の主題が変わってしまう。

これ以降、作者が地の文に顔を出して作品そのものの方向性について読者に打ち明ける点は『道化の華』。また、「書けない」「すべて嘘である」などと自己言及しつつも、三歳の記憶から生後八ヶ月まで遡っていく様子は『逆行』。過去の自分を引用しながら、詩のように短い文章を連ねていくのは『葉』に似ている。

このように『玩具』は『晩年』で試みられてきた実験の集大成なのである。

太宰治『晩年』初版

また最後の部分が(未完)の二文字で終わっているが、このような書き手の宣言を額面通りに受け取ってはいけない。

いまもなお私の耳朶をくすぐる祖母の子守唄。「狐の嫁入り、婿さん居ない。」その余の言葉はなくもがな。(未完)

小説家は、本当に未完の小説を発表したりはしないし、仮に未完であっても、それっぽくオチをつければいいだけの話であって、これは(未完)で小説が放り出されてしまうという自己言及的演出の1つであり、構造と見なすべきである。この主張には別の根拠もある。

『玩具』と芥川小説

実は『玩具』に構造がよく似た小説が存在する。それが芥川龍之介の『葱』と『奇遇』である。

前者は、締切に追われた「おれ」が地の文に顔を出しながら小説を語る小説。後者は、原稿を求める編集者に困った小説家が、男女の恋愛の「美談」を語るものの、結末へ次々に「真相」を付け加えていって、話を台無しにしてしまうというメタフィクションである。

『芥川龍之介全集3, 4』ちくま文庫

「作家が自ら小説内で本編に言及しながら進む、作中作の小説」である点も『玩具』と共通だし、これら2つの話では、どちらも小説が、「構想上では」まだ続いているはずなのに、最後の部分で時間に追われた作者が語りを放棄してしまう――つまり(未完)で終わる点でも共通している。芥川を私淑していた太宰が、これら作品から影響を受けた可能性は高いだろう。

何故作者たるおれが知っていないのかと云うと――正直に云ってしまえ。おれは今夜中にこの小説を書き上げなければならないからだ。

芥川龍之介『葱』

小説家 もう五六枚でおしまいです。次手に残りも読んで見ましょう。
編輯者 いや、もうその先は沢山です。ちょいとその原稿を貸して下さい。あなたに黙って置くと、だんだん作品が悪くなりそうです。今までも中途で切った方が、遥に好かったと思いますが、―とにかくこの小品は貰いますから、そのつもりでいて下さい。
小説家 そこで切られては困るのですが、
掲輯者 おや、もうよほど急がないと、五時の急行には間に合いませんよ。原稿の事なぞはかまっていずに、早く自動車でも御呼びなさい。
小説家 そうですか。それは大変だ。ではさようなら。何分よろしく。

芥川龍之介『奇遇』

作品を未完で終わらせることの意図は2つ考えられる。1つはその小説が、いかにも「現実>虚構」の構造の中に組み込まれた小説内小説であるかのように感じさせること。いま1つは、描かれていない「その先」があることを明示して作品を閉じることにより、テクスト解釈や、物語の空白を想像する自由を広げることである。

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投稿: 2020/12/17
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