この詩を読んでみてほしい。まるで鉄と油の臭いがするようだ。人間を表現するような言葉はほとんど排除され、無機質な機械の重量感と無感情さが詩から伝わってくる、悪魔的に力強いメカニカルな詩。
朔太郎は「通行する軍隊の印象」と書いている。(解説の続きは詩の後で)
この重量のある機械は
地面をどっしりと圧へつける
地面は強く踏みつけられ
反動し
濛濛(もうもう)とする埃をたてる。
この日中を通っている
巨重の逞ましい機械をみよ
黝鉄(くろがね)の油ぎつた
ものすごい頑固な巨体だ
地面をどっしりと圧へつける
巨きな集団の動力機械だ。づしり、づしり、ばたり、ばたり
ざつく、ざつく、ざつく、ざつく。この兇逞(きょうてい)な機械の行くところ
どこでも風景は退色し
黄色くなり
日は空に沈鬱して
意志は重たく圧倒される。づしり、づしり、ばたり、ばたり
お一、二、お一、二。お この重圧する
おほきなまっ黒の集団
浪の押しかえしてくるように
重油の濁った流れの中を
熱した銃身の列が通る
無数の疲れた顔が通る。ざつく、ざつく、ざつく、ざつく
お一、二、お一、二。暗澹とした空の下を
重たい鋼鉄の機械が通る
無数の拡大した瞳孔ひとみが通る
それらの瞳孔ひとみは熱にひらいて
黄色い風景の恐怖のかげに
空しく力なく彷徨する。
疲労し
困憊し
幻惑する。お一、二、お一、二
歩調取れえ!お このおびただしい瞳孔どうこう
埃の低迷する道路の上に
かれらは憂鬱の日ざしをみる
ま白い幻像の市街をみる
感情の暗く幽囚された。づしり、づしり、づたり、づたり
ざつく、ざつく、ざつく、ざつく。いま日中を通行する
黝鉄の凄く油ぎつた
巨重の逞ましい機械をみよ
この兇逞な機械の踏み行くところ
どこでも風景は退色し
空気は黄ばみ
意志は重たく圧倒される。づしり、づしり、づたり、づたり
萩原朔太郎『青猫』「軍隊」
づしり、どたり、ばたり、ばたり。
お一、二、お一、二。
カッコ内の読みがなは編者による
兇逞:「兇」は邪悪なもののこと。「逞」はたくましい様子。きょうてい。
『青猫』末尾に一作だけ孤立して配置された例外的な詩。反戦詩と捉えられたのか、太平洋戦争中の全集では削除されてしまった。朔太郎自身はこの詩について、次のように書いている。
最後の一篇『軍隊』は、私として不愉快だったから削るつもりだったが、室生犀星氏と佐藤春夫氏に激賞されたので出す気になった。自分で嫌いな作は人に讃められ、自分で好きな作は人から認められない。奇体なものである。
『青猫』追記
さて、那珂太郎などは「作者自身の意図としては、あるいはこれは「軍隊」批判や否定の、明確な自覚のもとに書かれたのではなかったのでもあろう」としながらも「対象への作者の嫌悪にみちた拒否的批判、痛烈な諷刺が、明らかに感じられはしないだろうか」とし、完全に反戦詩として解釈している(『近代文学鑑賞講座 15』より)。
しかし「軍隊」は果たして反戦詩なのか。確かに「感情の暗く幽囚された」や「疲労し困憊し幻惑する」などの箇所を読めば、軍隊に対してマイナスのイメージが付加されているようにも解釈できる。
が、遠足に行くような気分でウキウキ歩く軍人は日本にいないのであり、むしろ「この日中を通っている、巨重の逞ましい機械をみよ。黝鉄の油ぎった、ものすごい頑固な巨体だ」などの箇所は、軍事車輌のメカニックに対して男性的な、率直な感嘆をもらしているように感じられる。
むしろ私には、過酷な状況ながらも圧倒的な力を持つ軍隊をニュートラルに描写しているように思えた。そして軍隊の力とは、敵を蹂躙する暴力であり、味方を守る盾であり、結果として破壊をもたらすとしても、力それ自体に善悪はないのだ。
朔太郎は不出来と感じたらしいが、私も他の詩人同様に気に入っている。