
日は断崖の上に登り
憂いは陸橋の下を低く歩めり。
無限に遠き空の彼方
続ける鉄路の柵の背後うしろに
一つの寂しき影は漂う。ああ汝 漂泊者!
過去より来りて未来を過ぎ
久遠の郷愁を追い行くもの。
いかなれば蹌爾として
時計の如くに憂ひ歩むぞ。
石もて蛇を殺すごとく
一つの輪廻を断絶して
意志なき寂寥を蹈み切れかし。ああ 悪魔よりも孤独にして
汝は氷霜の冬に耐えたるかな!
かつて何物をも信ずることなく
汝の信ずるところに憤怒を知れり。
かつて欲情の否定を知らず
汝の欲情するものを弾劾せり。
いかなればまた愁い疲れて
やさしく抱かれ接吻きすする者の家に帰らん。
かつて何物をも汝は愛せず
何物もまたかつて汝を愛せざるべし。ああ汝 寂寥の人
萩原朔太郎『氷島』「漂泊者の歌」
悲しき落日の坂を登りて
意志なき断崖を漂泊さまよい行けど
いずこに家郷はあらざるべし。
汝の家郷は有らざるべし!
- 久遠:1.長く久しいこと。2.永遠。くおん。
- 蹌爾:そうじ。解釈は下記参照
- 寂寥:物寂しい様子。せきりょう。
『氷島』の冒頭に置かれ、『氷島』の通奏低音とも言える漂泊者の孤独を詠った詩。
蹌爾(そうじ)は朔太郎の造語。「蹌」は「珈琲店 酔月」に出てきた「蹌踉」などと同じく「ふらついて歩く」の意味か。「爾」は「そのような状態である」を意味する助字。
この詩、これまでのスタイルを捨てて、格調高く文語で書かれている分、朗読するとかなり美しい。
『野獣死すべし』(’80)という松田優作主演の映画の中で、頭脳明晰な犯罪者である主人公が、女性のマスターベーションを眺めながら「漂泊者の歌」を朗読するという、かなりキマった場面があるのだが、その場面を初めて観たとき、詩の意味は入ってこずとも美しく感じたものである。『野獣死すべし』は「松田優作が朗読する萩原朔太郎」という一点だけでも鑑賞の価値があり、また邦画としても卓抜の出来である。

那珂太郎はこの詩をもって「『ツァラトゥストラ』から影響を受けすぎている」と批判した。その指摘は確かに正しい。翻訳にもよるだろうが、『ツァラトゥストラ』第三幕はじめの「わたしは漂泊の旅びとだ」(岩波書店、氷上英廣訳)や、次章の「蛇と石の話」など、キーワードレベルで合致する部分が多い。そして朔太郎はニーチェの熱烈な信奉者でもある。
『野獣死すべし』でこの詩が引用されるのも、主人公が「ニーチェを半年で読みきった」というニヒリストであることが影響している。
しかし朔太郎が、ニーチェの自我をモチーフにしたからといって、またいくらかツァラトゥストラの口調を模したからといって、この詩の価値は少しも揺るぎなく、これからも詠みつがれるべき詩であるという想いは明記しておきたい。