坂口安吾『教祖の文学』(’47) / あなたは小林秀雄を信じますか?

2020/07/15 ・ 日本文学 ・ By 秋山俊
坂口安吾『堕落論・日本文化私観』岩波文庫

鹿島茂が何年か前に『ドーダの人、小林秀雄 わからなさの理由を求めて』(’16, 朝日新聞出版)を出し、ドーダ論殺法で小林秀雄をめった切りにしたことが、一部で人気を博していた。

ところが終戦間もない1947年、早々に小林秀雄のトリックを見破り、その教祖の手口を大衆に晒していたのが坂口安吾なのである。

思うに小林の文章は心眼を狂わせることに妙を得た文章だ。

坂口安吾『教祖の文学』

小林秀雄を批判するならこの一文で十分だと思う。彼は詩人であって論理の人ではない。

小林秀雄, 1902-1983

私はつい先日、「人は説得力のあるものを求めてはいても、論理的なものなどは求めてはいない」と書いた。全く論理的ではないが、説得力だけは異様な迫力でもって読み手を轢き殺す、それが小林秀雄の文章なのである。だから彼の文章は大衆にウケたのである。

安吾は、小林秀雄が「美しい花がある。花の美しさなどというものはない」という、いかにも彼好みの禅問答めいた言い回しをするのを引き「言葉遊びじゃないか」と一刀両断。

『堕落論・日本文化私観』

私は然しこういう気の利いたような言い方は好きでない。本当は言葉の遊びじゃないか。私は中学生のとき漢文の試験に「日本に多きは人なり。日本に少きもまた人なり」という文章の解釈をだされて癪に触ったことがあったが、こんな気のきいたような軽口みたいなことを言ってムダな苦労をさせなくっても、日本に人は多いが、本当の人物は少い、とハッキリ言えばいいじゃないか。こういう風に明確に表現する態度を尊重すべきであって日本に人は多いが人は少い、なんて、駄洒落にすぎない表現法は抹殺するように心掛けることが大切だ。

 美しい「花」がある。「花」の美しさというものはない、という表現は、人は多いが人は少いとは違って、これはこれで意味に即してもいるのだけれども、然し小林に曖昧さを弄ぶ性癖があり、気のきいた表現に自ら思いこんで取り澄している態度が根柢にある。

『教祖の文学』

これは結構凄いことなのではないかと思う。

というのも、当時の日本の空気というのは「小林秀雄がわからない」と言えば「小林秀雄を理解できない私がバカです」と解釈されるべき神格化された存在であったはずで、決して「小林秀雄がわからんことをほざいてる」とは認められなかったからである。

その不可侵性は、後の三島由紀夫のようなポジションなのだろう(三島の文章はわかるけど)。

三島由紀夫, 1925-1970

小林秀雄の文章に接して、人は必ず、これが晦渋なのか自分がバカなのかを迷わねばならない。自分の中で結論は出ている。小林秀雄の文章の難しさの9割は無駄に難しく、1割は本当に難しい。その文章は確かに「悪文」的だが、美しい「悪文」である。なんてったって、彼は詩人なのだから。

だから私は、「悪文家」であるという理由で彼を、ことさらに貶めようとは思わない。なんら論理的必然性を持たない詩的な言い回し、「悪文」こそ彼の真骨頂で、読みやすくて勉強になる小林秀雄など、かえって気味が悪いしありがたみもない。そこから人は詩というものを学んだのだから。

小林秀雄は詩人である。小林の批評は芸術的な散文詩である。「論理の評論家」と誤解されたことこそが、彼の不幸であった。

「美しい「花」がある。「花」の美しさというものはない」というフレーズにしても、「だから何だ」とひねくれずに、その論理と詩が混交した響きに酔いしれればいいのだ。

安吾の以下の文は、文壇の中で果たした小林の業績と立ち位置を正確に言い表している。

彼の昔の評論、志賀直哉論をはじめ他の作家論など、今読み返してみると、ずいぶんいい加減だと思われるものが多い。然し、あのころはあれで役割を果していた。彼が幼稚であったよりも、我々が、日本が、幼稚であったので、日本は小林の方法を学んで小林と一緒に育って、近頃ではあべこべに先生の欠点が鼻につくようになったけれども、実は小林の欠点が分るようになったのも小林の方法を学んだせいだということを、彼の果した文学上の偉大な役割を忘れてはならない。

『教祖の文学』

鹿島茂が小林訳のランボー『地獄の季節』«Une saison en enfer» を誤訳だらけと批判していたが(そもそも「季節」という訳がアヤしく、『地獄での一季節』とした方が正確)、彼には忠実で誠実な訳など、ハナから求められていない。誤訳のない小林の『地獄の季節』は、それこそ用をなさない。

小林秀雄はランボーを真の意味で換骨奪胎してしまい、自らの『地獄の季節』を作り上げてしまった。そして困ったことに、その『地獄の季節』は良く出来ていたのである。ただしランボーの作品というより、小林秀雄の作品としてだが。

小林秀雄訳『地獄の季節』と«Une saison en enfer»

2013年のセンター試験国語に、小林秀雄の『鍔』が出題された。当時受験勉強をしていた私は、自分のような境遇の者ならともかく、こんな試験問題を人生の瀬戸際に解かされる18歳の机は大惨事だと思った。

案の定、この年の国語の平均点は史上最低を更新し、ただでさえ理不尽なセンター国語が、いっそうの暴力で受験生の努力を有耶無耶にしてしまった。入学試験で一時期定番を誇った小林秀雄は、実は最も公平性からかけ離れた文章である。それは詩の解釈を問うようなものだからである。

センターで出題された文章も、散々と鍔に関する難解なうんちくを並べた挙げ句、最終段落に入っていきなり「鳥が飛んだ……」みたいなポエジーが挿入され、そこに傍線が引かれてしまったものだから、とんでもないことになった。

ところであまり関係ないが、坂口安吾の文章の出だしが

去年、小林秀雄が水道橋のプラットホームから墜落して不思議な命を助かったという話をきいた。

『教祖の文学』

プラットホームから墜落した小林秀雄って、すごいパワーワードだな。

日本文学の記事一覧

LINEで送る
Pocket

投稿: 2020/07/15 ― 更新: 2020/09/15
同じテーマの記事を探す
関連記事
コンテンツ
文客堂について