なぜ作品解釈は十人十色にならないのか

石原千秋『読者はどこにいるのか』河出書房新社, 2009

大学で新入生を教えていて苦労するのは、十人十色の解釈が教室を乱れ飛ぶからではなく、同じ解釈ばかりという状態から個性を引き出さなければならないからである。新入生を教えていると、高校までの国語教育がいかに均質な内面の共同体を作り上げているのかがよくわかる。

石原千秋『読者はどこにいるのか』p.101, 河出書房新社, 2009

子供の頃、「十人が読めば十通りの読み方が生まれる」というような国語教師の紋切り型を真に受けていて、結構長いことそれを信じていた。ところがネットを自由に使えるようになり、レビューサイト戦国時代に突入し、1億総Amazonカスタマーの評論世紀が到来すると、どうもそんな話は嘘らしい、ということが分かってきた。

解釈パターンは大体決まっている

ある作品についての人々のレビューを読んでいれば、すぐさま、そこにある解釈のパターンはせいぜい3通りくらいしかないことに気づくだろう。さらに、その3通りというのも、基本的には「作品を見て誰もが分かること」「評論家などが言い出した定説」のパターンを組み替えているに過ぎない。本当に面白い解釈や個性的な視点というのは、少なくとも一般投稿レベルだと滅多に存在しない。「面白いと思う箇所」とか「好きな登場人物」については、無論かなりのバリエーションがあるが。

ネットがもたらす意見の均質化については、以前「自分の言葉で語ることが重要」という記事の中で書いた。

インターネットの普及で意見が多様化しているかというと、私の所感ではそれは全く逆で、意見は平均化している。つまりどこそこの人が「この作品はここが優れているんだ」と語ったことが影響力を持つと、その解釈をみんなが信じるようになって、似たような、影響を受けた論説を皆が紡ぐようになる。

簡単に言えば、ある作品の解釈は「定説の引用」が大部分を占めている。実は難解と呼ばれる作品すら、驚くほど均質な解釈で占められている。例えばキューブリック監督の『2001年宇宙の旅』(’68)は非常に難解な映画だが(下図)、映画好きの間でも解釈の仕方がほぼ決まっている。それはあまりにも分からないために、誰もが評論家の出した定説をそのまま受け容れたからだ。

図:『2001年宇宙の旅』1968年

「十人が読めば十通りの読み方が生まれる」 という俗信には、次のような解釈についての誤解がある。すなわち

  1. 人はなにかに触れれば“自然と”意見や解釈を構築する
  2. 人は作品を自由に解釈する能力を持っている
  3. ある表現とある人格の接触は、それぞれ固有のケミストリーを引き起こす

しかしこれは誤解であり、迷信であり、人間の感受性や知性を、過度に豊かに見積もっている。だから冒頭の引用にあるように、文学者は「同じ解釈ばかりという状態から個性を引き出さなければならない」事態に悩まされるのだ。

意見は“作る”ものである

例えば講義やセミナーの最後に「何か質問はありますか?」と投げかけて、シーンという沈黙が5秒ほど続き「無いようなので、これで終わります」と、講義をした人間やいくらか消沈しながら部屋を後にする光景。これは講義をした人間に、上で挙げた「1」のような誤解があるから生じる光景だ(単に決まったステップをこなしているだけのことも多いが)。

質問が出てこない理由は大きく2つある。1つは「質問するのがなんか恥ずかしい/躊躇われたから」で、これは説明するまでもないだろう。もう1つは「特に質問はないから」である。つまり聴講してる側も「質問?……とくに無いな」と素直に思うので、質問しない。

実は質問をはじめ、作品に対する意見や解釈といったものも「作らないと」出すことが難しい。ある講義や作品を前にして多くの人に“自然と”生じることは「ここでこういうことが起きた。私はそれを理解した」という「事実の認識」、そして面白いとかつまらないといった、単純な「感情」だけである。

「頭の中で自然と意見を作ってしまう」というのは、そのテーマに関する教養が深く、普段から意見を構築する習慣があり、議論を行うことが日常的な人間(つまり実質的にオタクか専門家レベル)だけである。あるいは、その講義や作品が明らかに説明不足だったり、猛烈に他人の価値観に反する場合だけである。

この問題について、『知の技法』の中で船曳建夫は次のように述べている。

『知の技法』東京大学出版会, 1994

意見は作るものです。ある議論に対して、意見やコメントが自然に湧いてくると思うのは間違いです。[…]適切な発言をするためには「なにか発言してやろう」と最初から意識的に心がけることが必要です。セミナーを主宰する方も、発表が終わったときに問うべきは「何か意見がありますか?」ではなく、「どんな意見を作りましたか?」なのでしょう。

『知の技法』p.270, 東京大学出版会, 1994

では普段何気なく発している「感想」とは何だろうか?言葉の定義に幅があるが、「感想」とは、多くの場合「感情」の集合体である。つまり「面白い」「退屈」「どうでもいい」「あのキャラに共感した」……こういった「感情」なら、自然に湧いてくる。むしろ何も感じない方が不可能なくらいだ。従って大抵の感想というのは「あの展開が良かった」とか「あの場面で感動した」といった「感情」の羅列になる。

もちろん「単なる感想が悪い」というわけではないが、最初に提起した解釈の凡庸性の問題は、このような、作品を感情だけで処理して消費する姿勢から生まれている。私が見る限り、ある作品に対してユニークな解釈をしている人間は、日常的に批評を加える習慣があり、さらに定説の反復ではなく自分固有の意見を作るように意識的に言論を紡いでいる人間である。

人は紋切り型の虜囚

ではそのような解釈構築に慣れていない人間が「この作品を解釈しなさい」と言われた場合、どうするのか?そのとき、人は紋切り型を駆使するのである。

例えば戦争映画を観て「戦争の悲惨さがよく分かった」。これは非常によく見かける紋切り型である。ここで解釈が数通りに収束してしまう、もう1つの理由も浮上する。それは、人間は成長の過程で「このような表現は、こういうことを意図している」「こういう表現はこう解釈しなければならない」といったパターンを、無意識に学習しているということである。そしてそれは、社会規範とも強く結びついている。

戦争映画が「戦争の悲惨さを表現している」と、多くの人が感じるのは何故か?それは「戦争は素晴らしい。どんどん殺し合おう」などというメッセージ、あるいは解釈が、社会的なタブーでもあるからだ。そんな反社会的なメッセージを作品が内包するとは思えないし、自分もそんな解釈を持ってしまうような非人間的な解釈者だと思われたくない。だからこそ「感動のストーリー」と多くの人が賛同しているものに対して「人間の浅はかな落涙願望をあざ笑った、作者の痛烈な皮肉」などとは、仮に思ったとしても言いにくい。

このような抑圧が働いた結果、人間は無意識のうちに「社会的により好ましい解釈」に迎合するようになる。これが人の解釈を強烈に拘束する。人間の解釈は、その人の所属する社会規範や価値観と強く結びついている。だから例えば、西欧諸国で有名な神話や物語を、いわゆる「未開の地」の原住民などに説明すると、先進国に住む人間が全く想像もしなかったような解釈が次々に飛び出したり、「主人公の行動がおかしい」といったツッコミが入るそうだ。

孤高のレビュアー

少し前に、私はAmazonで個性的なレビュアーを発見した。その人は、多くの鑑賞者が「感動作」「ヒューマニズムに溢れた作品」などと解釈した作品に対して「これは殺人を奨励している」「作者は殺人犯を美化している」といった斬新な解釈を次々に繰り出していたのである。あまりにも解釈が斬新過ぎて、どうやら通報多数でレビューが消されたらしく、そのことを怒ってもいた。

その人のことを、多くの人が「気狂い」と感じたのだろう。しかし私の見る限り、その人の意見はあまりに個性的で、ときに極端で強引でもあったが、決して論理的に破綻した、支離滅裂な文章を書いていたわけではなかったのである。むしろ書き慣れている印象であった。恐らくその人は抑圧に屈しない強烈な自我の持ち主で、変わり者かもしれないが、物事を自分の目で見て、自分の意見を構築することに一途なのだろう。

紋切り型が支配する世の中で、その人が生み出すような斬新な解釈は、自分の視野を広げる貴重な財産となる。私はその人のレビューを今でもウォッチしている。

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投稿日時: 2020/02/10
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