不完全であれ!

クロード・モネ「睡蓮、柳の反映」1916年, 油彩・キャンバス, 国立西洋美術館(旧松方コレクション)

私はある時、気づいた。「完全」とは牢獄であると。私は「完全」の牢獄で悠然と構えているより、「不完全」の野原で泥臭く駆け回ったり転げ回っていたい。「自分は前進している」と確信しているときの、あの、心の底から沸き上がってくる灼熱の感情はなんだろう。幸福とはその到達点にあるのではなく、「幸福へ前進している予感」の中にある。予感こそが幸福だ。勝ち取れるという予感。結ばれるという予感。逆にそこに到達すると、幸福はふっと消えてしまう。まるで蜃気楼のように。

例えばここに「完全なる生物」が存在するとしよう。それ(ここでは便宜上「彼」と呼ぼう)は、もはや一切の運動を行う必要がない。なぜなら彼は完全だからである。もし彼に何らかの運動が必要だとすれば、それは彼が完全でないことを意味している。

「完全なる生物」は、最高の生命であると同時に、実は運動的に見ると全く不動の「死体」であるという、生命の特異点に存在する。生命とはなんだろうか?生命とは運動である。細胞でもなんでも、何かの運動が認められる時、我々は初めてそれを生命と呼ぶ。「完全なる生物」は、既に運動の必要性を超越しており、あまりにも生命があり過ぎて逆に生きている必要がないという、二律背反の存在になってしまう。「完全」には過去も未来もなく、ただ現在に凍結されている。

これは完全性に関する比喩であって、あらゆる物事は「完全」に接近するとこのような矛盾を抱えることになる。マンガのタッチであれ、物語の構築論であれ、音楽理論であれ、極限まで最適化されていくと「もはやこれ以上何も考える必要がない。ただそれを続けなさい。なぜならそれは完全だから」という状態に陥ってしまう。私はこのような自縄自縛を「最適解の虜囚」と呼びたい。このような極限状態に接近した人間には2つの選択肢がある。一生その「完全」に安住して、永遠に「最高のもの」を生み出し続けるか、「完全」を嫌ってそのフレームを叩き壊してしまうかである。

「不完全」!それはなんと生き生きとした状態だろう。「不完全」であり続ける限り、私は転げ回り続けることができる。遊び続けることができる。「不完全」には、人の胸を高鳴らせる力がある。「一体ここからどうなっていくのだろう」という予感。絶筆の芸術作品を前にして続けられる「思うに、この先は……」という無限の空想。不完全は生命だ。ああ、私は今からとんでもなくチャレンジングに振る舞って、意味不明な問題作を作り上げてやるんだ。とんでもない大失敗だってしでかしてやる。君たち、私が今からどんな「ヘマ」をやらかすか、とくと御覧じろよ。私の失敗を笑ってくれると、肩の荷が下りて、もっともっと自由に振る舞えるようになるな。

「不完全」な存在は、存在する意義がないと誰かが言う。だが私としては、「完全」な存在は、もはや存在する意味がないと言い返してやりたい!

テキスト系記事の一覧

LINEで送る
Pocket

投稿日時: 2020/02/09
同じテーマの記事を探す

記事内容に関して

作品や書籍の感想・評価・考察はあくまで筆者の考えであり、他人の意見を否定するものではありません。 作品の面白さを破壊しない範囲でネタバレを書くことがあります。