味噌ラーメンと将棋と東京湾

先日、母に味噌ラーメンを作ってもらった。作ってもらっておいて偉そうだし大変恐縮だが、母のラーメンには思想がない。

子供の頃、味噌ラーメンを素ラーメンとして出されて絶句したことがある。つまり私の理解だと、味噌ラーメンのアーキテクチャは、濃いスープを野菜に絡めて食べることを想定している。野菜のない味噌ラーメンというのは有名無実の、味噌ラーメンのジェスチャーをしているに過ぎないと感じたのである。

今回も呼ばれてリビングに出たら、子供の頃の思い出が蘇った。モヤシがなかったのである。

「今回切らしていたのよ」

なんということであろうか。モヤシは、濃いスープを味わうための尖兵として機能する。例えば近年ブームとなっている二郎系ラーメンでモヤシが多用されるのも、あの殺人的に濃厚なスープを、まずモヤシで攻略するためである。モヤシは、それ自体には味がほとんどないため、味噌スープを絡めて味わうのにうってつけなのだ。それに、食感が良い。

味噌ラーメンにおけるモヤシは、将棋における歩のような存在だ。将棋でも、まず歩を突いて駒を絡め合いながら戦いを始める。そして今眼前にあるのは、モヤシという前線を欠いた味噌ラーメン、すなわち歩が欠落した将棋の陣地だ。

仕方なくキャベツをモヤシの代理として十全に活用しながら、食感を増して麺と一緒に味わう。キャベツは将棋で言えば、金。自陣の守備を担う万能の駒だ。将棋として味噌ラーメンを解釈していくと、チャーシューは飛車。ニラが桂馬で、香辛料が香車となるだろう。攻めのバリエーションを増やす海苔は銀。

戦いも終盤戦に入ると、寄せの手筋を念頭において周到に麺と具を残さねばならない。フィニッシュの決め方がその食の印象を作る。ここで悲しい事実に気がついた。挽き肉とコーンの量が足りないと思ったら、多くがスープの底に沈殿していたのである。食事の最中にはレンゲを使ってサルベージするのがマナーだが、如何せん味噌ラーメンは透明度が低いので拾い切るのが難しい。

これらが必然的に沈殿してしまうのは、近年のラーメンが抱える大きな問題点と言わざるを得ない。彼らを沈めないまま食べきるのは、ビッグマックを手を汚さずに平らげるのと同じくらい難しく、ほとんど曲芸の域にあると言っても過言ではない。

かつてはこのような沈殿物は、スープと一緒に飲み干して回収するのが当たり前であった。しかし塩分を悪とする近年の健康常識では、ラーメンのスープ飲み干しは、食生活における最大のギルティと見なされる。この禁忌を破ってスープを飲み干した人間は、脳内出血で漏れなく死んだ。こうしてラーメンに挽き肉やコーンを投入することの構造的欠陥が表面化したのだ。

スープをシンクに捨てるとき、彼らはようやく底から姿を現す。まるで東京湾だ。あるいはダム建設で水没した限界集落だ。愚かなる人類による環境破壊の隠喩として浮かび上がる、味噌ラーメンのバターコーン。

スープを捨てるときに母が、マイタケが残っているじゃないかと私を咎めた。

「マイタケは守護霊みたいなもんです。そこにいてくれただけでいいんです」

母は、何言ってるんだ、と言って、丼に残ったマイタケをヒョイと箸で引ったくってモシャモシャと食べた。

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投稿日時: 2020/01/21
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