ホームに向かって走れ

たとえ間に合わなくとも、電車のホームに走って向かうことが大切だと考えております。息せき切りながら駆け上がり、流れた汗を、去っていく電車の風が爽やかに乾かしていく結果に終わっても構いません。それでも私は走るのです。

分かります。分かります。あなたが批判なさるのは。第一走るのは、危ない。私も小さい頃、母から、意味もなく走る癖を咎められました。落ち着きのない子でした。長じてからも道で警官に呼び止められ、なぜ走っているのかと怪しまれました。そのとき私は、とっさに太宰を引用したものです。

「信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題ではないのだ。人の命も問題ではないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいもののために走っているのだ。ついてこい!フィロストラトス。」おかげで職務質問の時間が伸びました。

私は、恐れているのです。「どうせ、間に合わない」。いつしかそう諦めることが常態となり、間に合うかもしれないときにも重い腰。そうした倦怠と諦めが私の全身に蔓延し、どんなことをする場合でも「どうせ、今更、もう……」そんな口癖が住み着くことを恐れているのです。人はそうやって、いつしか自分の人生すら諦めてしまうのではないでしょうか。

私は電車の出発時刻が迫るたびに、走るか走らないか、運命の二者択一を迫られている気がします。これはメタファーなのです。走らないのか。今、走らないのか。その選択をこれからも繰り返すのか。一生繰り返すのか。私の大切なものが、今この瞬間に飛び去ろうとしていたとしても走らないのか。走れないのか、ルシウス・フラビウス・フィロストラトス!

だから、私は走るのです。

「間に合うか、間に合わないか」という勝負ではないのです。「走るか、走らないか」――そこが、勝負。

駆け込んだ駅のホームが、がらぁんとしていて、ポツンと立った人影がこちらを覗いても、ちっとも気にしません。次第に背中がびっしょり濡れてきても構いません。むしろ私は、誇らしいのです。どんな時でも走れる自分が、少しだけ誇らしいのです。

テキスト系記事の一覧

LINEで送る
Pocket

投稿日時: 2020/01/15
同じテーマの記事を探す

記事内容に関して

作品や書籍の感想・評価・考察はあくまで筆者の考えであり、他人の意見を否定するものではありません。 作品の面白さを破壊しない範囲でネタバレを書くことがあります。