私は容赦なくツイ消しする、ドガだってそうだ

エドガー・ドガ「バレエの授業」1874年

私は初めて自分のWebサイトを持った14歳のときから、ネット上の自分の文章を編集したり消去することに微塵も躊躇がない。ネットのテキストというのはいつでも改変されるのが当たり前だと思っているし、それこそがテキストの魅力だと考えているからだ。テキストは匿名的かつ流動的で、誰が、いつ書いたといった制約から比較的自由でいられる(著作権がないという意味ではない)。

テキストの編集にいちいち許可や断りが必要だとしたら、ネットは今よりずっと狭苦しくてスラム化するだろう。古くて洗練の足りないものが、あちこちに散らばっているスラムだ。改変が失われたネットの世界では、Webの窓ガラスがそこかしこで割れているのだ。

ネットでは、目前にあるテキストだけが現実だ。それがいつ書かれたか、どのように加筆修正されたかは、さほど重要ではない。テキストが簡単に改変されるべきではないというのは、活字的な思考法だ。それはネットの良さを殺してしまう。ネットでは「今ここにある現在」以外に確かなものはなにもない。なぜならネットとは流動する情報だからだ。

このようにネット修正主義的な立場をとる私としては、「ツイ消し」について「自分の一度書いたものを消すのは逃げだ」というような見方を受け入れるだけの寛容さを持たない。私は自分が書いたあらゆるテキストが、その後“自分にとって”面白いかどうかを常に気にしているので、書いた後で「あぁ、駄文だったな」と思ったら消してしまう。

ネットのテキストは改変されるのが当たり前だ。しかるにTwitterは投稿後の編集を許さない。なれば、皿ごと叩き割って新たなつぶやきを紡げばいいではないかと私は思う。

ツイ消しは離婚と同じだ。自分のツイートとの離婚だ。地下鉄の車両に揺られながら、巷のタブロイド紙の見出しをサッと見れば、離婚の話など毎日あがっているではないか。離婚がどれくらいありふれているかと言うと、きっとその辺で売っているカレーパンと同じくらいありふれているだろう。つまりツイ消しはカレーパンのようにごく自然だ。つぶやきはジャガイモのように溶けた思考の海だ。一体何の話をしているんだ?さあ分かりません。

ここで19世紀に生きた印象派画家であるエドガー・ドガを引き合いに出そう。彼は徹底した編集主義として知られ、あまりにも加筆修正が激しく売った物にまで修正を施しにくるので、客はドガに絵を持っていかれないようにチェーンで絵を縛ったという逸話まで残っているほどである。踊り子ばかり偏執狂的に描き、眼が見えなくなってきても踊り子の彫刻を作っていた本物の踊り子バカである。ドガである。

そんなドガが現在生きていてツイッターをしていたらどうなるか?恐らくツイ消しし過ぎて50以上のツイートを溜めることができない。彼にとってTwitterなど、自縄自縛の牢獄に過ぎまい。

そんなことを考えていたら年が明けた。これが日本の大晦日か。水滴だらけの窓の向こうに浮かぶ富士の頂。自販機でドクターペッパーでも買ってくるか。あけましておめでとう。

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投稿日時: 2020/01/01 ― 最終更新: 2020/01/02
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