人間はどんな弱さを持っているかが重要

ポール・ゴーギャン「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」1897-1898年

十代の頃は当然、人間はどんな強さを持っているかで価値が決まると考えていた。ところが時間と共に、どうも人間というのは弱さに注目したがる生物だということが分かってきた。世の中を見ると、超人的な人物のサクセスストーリーよりも、むしろ欠点だらけの人間の話の方が広く共感を集めているように見える。

人間は卑屈な生き物だから、他人の弱さを知って安心したり、弱者を見下して自尊心を満足させたがっているのだろうか?確かにそういう部分もあるだろうが、私がこの人間性質の核心と考える部分は別にある。

それは弱さという「歪み」「へこみ」が、まさに人間そのものだということだ。我々はどのような弱さを持っているかによって形作られる。弱さが我々を規定する。人がドラマの中で、人間の強さより弱さに注目し、より共感を覚えるのは、弱さこそが人間らしさだからだ。

強さというのは後付けのものに過ぎない。弱さを克服しようとした個人が、ではどうやって弱さを補うか、というのを頭で思考して補強したものが強さだ。つまり強さは概念的であり、人工的である。言うなれば、強さとは弱き人間が身につける「装備」である。一方で、弱さとは「生身」そのものだ。「生身」が人間存在そのものだ。

強さは作ることができる。筋力トレーニングでも、勉強でも、討論でも何でもいい。方法論を作り出して、苦痛を反復することにより、強さはある程度、誰でも身に着けられる。それは強さが外的な装備だからだ。したがって、強さは個性を持たない。人間らしさを持たない。

一方、弱さは作りだせない。少なくとも無理やり作り出そうと試みる人はいない。社交的な人がどんな他人に対してもビクビクするようになるには、よほどのトラウマと長い時間が必要だろう。だからこそ「臆病」とか「人見知り」というのはその人の個性であり、その個人そのものということになる。

そしてドラマは弱さからしか始まらない。強さというのは既に完結している。「俺は強い。いやぁ、よかった」というだけの話だ。そのあとに続くのは「めでたしめでたし」という言葉だけである。強さから生まれるドラマ、それは強いて言えば戦争と虐殺くらいだろう。あるいはそれはドラマですらないかもしれない。

誰にでも欠点はある。だからこそ僕らはドラマを求めるんだ。だから戯曲を書き、映画を撮ったり、テレビドラマを作るんだ。自分が気に入らない一面や傷付きやすい一面、人間臭さを表現するためにね。それらが我々の真実であり、向き合っていくべきものだ。

映画監督のジェームズ・グレイ
(『アド・アストラ』コメンタリーより)

例えば人間はなぜ長々と生きるのか?死ぬのが怖いからだ。人間が死の恐怖を持たなければ、きっと世の中の人間の多くはとっくに自殺して生きてはいないだろう。無限の未来について想定するとき、現在の我々のどんな行為も虚無に回収されてしまうからだ。しかし人間は死を恐怖するからこそ生き伸びている。臆病という弱さが、人生というドラマを紡いでいるのだ。

弱いから素晴らしい、という意味ではない。弱い人間が軟弱なありのままで生きていればいい、という意味でもない。人間の全ての根源は弱さにあり、弱さこそオリジンであり物語だということだ。

人間はどんな弱さを持っているかによって形成される。そして逆説的なようだが、どんな弱さを持っているかによって、何ができるのかが決まる。死を恐怖することによって生き続けることができるように。

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投稿日時: 2019/12/29
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