「ワザとらしいメロン味」というオリジナル

2019/12/25 ・ 雑記 ・ By 秋山俊
久住昌之, 谷口ジロー『孤独のグルメ』扶桑社, 1997年

一体、現代のこの熾烈な「ホンモノ合戦」の中で、誰が手に取るというのだろう。自動販売機にズラリと整列した「ホンモノ」「本格」の飲料たちに、一歩も引かずに威風堂々並んで見せる「ワザとらしいメロン味」の飾らぬ姿。「俺に引け目を感じさせる要素など一切存在せぬ」――私はその気高さに心惹かれた。

「ワザとらしいメロン味」こそは、現代の過酷な飲料戦争の嵐の中を、どこ吹く風とさすらう孤高の一匹狼である。

「昭和の遺物」「果汁1% wwwww」

そんな嘲笑など、「ワザとらしいメロン味」は、ちっとも気にしません。

世の中の大半の自販機飲料たちは、当然の如くに「ホンモノ」を志向する。「ホンモノ」にいかに接近するか……そのためならば、彼らは努力の一切を惜しまない。それはあたかも、モデルの髪型や服装を真似し「xxxxみたい」と近似であることを評価されて喜ぶ消費者の如くである。

コーヒー飲料を見れば分かるだろう。

「“ホンモノ”の味わい……」
「まるで挽きたてのような……」
「エスプレッソ仕立て」

しかし缶コーヒーの開発部がどれだけ眠れぬ夜を過ごし、家族を犠牲にし、会社に魂を売ってまで開発に心血を注いで「本格」をうそぶいたところで、それは所詮、一度挽いてしまった豆から抽出した珈琲を長時間置いてから飲ませるという、言わば死者蘇生の試みなのだ。ザオラルで復活したラザロのHPが半分しか残っていないように、豆で挽いて飲む人間からすれば、どこまでもワナビーしかない。

つまり「ホンモノ」を志向する彼らは「ホンモノ」を到達点と定めているがゆえに、常にその完成度は「ホンモノの何%」というモノサシで評価され、逆の見方をすると「どれだけ偽物っぽくないか」という減点法で判断される。したがってそれは、どんなに頑張っても代替品にしかならない。手近にある「ホンモノ」は、周囲の全てのワナビーを虐殺する。

ところがこの点、「マックスコーヒー」は違う。マックスコーヒーは、もはやコーヒーとは呼べないほどの甘味料を追加した、薄茶色の「飲む角砂糖」である。「コーヒーを飲みたいが、飲めるほどまで砂糖を入れると気持ち悪くて飲めない」――そんな甘党のニーズを完璧に回収した、利根コカ・コーラボトリングのマスターピースである。

マックスコーヒーは、コーヒーにあってコーヒーに非ず。彼らは「自分はどれほどコーヒーなのか?」などといったアイデンティティの葛藤には全く関与しない。マックスコーヒーは「マックスコーヒー」というジャンルに存在する、一にして全たる唯一飲料である。

「ワザとらしいメロン味」と、他の数多の「メロン味」との関係もこれに似たようなものだ。彼らは、偽物である。当然の如くに偽物である。しかしだからこそ、「真っ赤な偽物」というオリジナルに到達したのだ。もはやこの領域まで行くと、「ホンモノのメロンは『ワザとらしいメロン味』の代わりにはなれない」という下剋上まで発生する。

「ワザとらしいメロン味」を飲んでおいて「メロンジュースはこんな味じゃない!」などと文句を垂れるバカはいない。それは井上陽水のモノマネをするりんごちゃんに「おまえが陽水であるものか!」とクレームをつけるようなものだ。

***

私は飽いていた。

世の中の数多の「ホンモノ」を喧伝する飲料を飲む度に「これはホンモノの何%」「コンビニコーヒーの下位互換」と批評することに飽いていた。

そんな寒風厳しい12月に手にとった「ワザとらしいメロン味」の豊かさよ。ここで批評は無意味である。これは「ホンモノ」だ。「ワザとらしいメロン味」という味は、これにしか出せない。

「ワザとらしいメロン味」こそはオリジナル。

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投稿: 2019/12/25 ― 更新: 2020/01/01
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